御書拝読・私論
投稿者: 鬼滅の言
法華経や御書のある部分で急に境地がひらける場合がある。
「人生観と仏法」(篠原誠)
法師品第十に「御本尊を拝んでいる者は、好む所へ生まれる」(取意)と書いてあるが、辻武寿さん(現創価学会副会長)は、この事を聞いてから、それまで青白くて病人みたいであったのが、今見るように、血色のよい顔になってしまった。
私の人生で言い残しておきたいこと。それが戸田先生のこのご指導です。
19才の春。深刻な悩みに直面した私が拝したご指導です。
戸田先生のご指導を読み2つのことを感じました。
御書1600頁のどこかに私自身の宿命を転換する一節があるはずである。
多くの学会員は多分、御書を全編読まずに人生を終えるだろう。それはまことに残念なことではないかと。
そう感じた私は必死で御書拝読に挑戦しました。
次の頁か!更に、その次に頁か!と必死で頁をめくりました。
自身の宿命の転換を可能にする一節に出会うために。
学生部ということもあり1年で御書を読了することができました。
御書を読了し感じたことです。箇条書きにします。
ー 開目抄はもの凄い御書。
ー 開目抄を拝することができたこと自体、この世に生をうけた意味があったと思えました。
「解脱を求めずと雖も解脱自ら至る」
開目抄下 御書p.233
私が求めていた信仰はこの一節にある。深く深く生命に刻みました。
私が最も深く生命に刻んだこの一節ですが、人に語るのは生涯に何度も無いと漠然と思っていました。何か見えない糸で金縛りの状態にあり語れないのです。
10年ほど前になりますが、自分なりにその意味が分かりました。
日蓮大聖人の御書は命がけで書かれたものです。
私自身が命がけで戦っていない限り、その一節にふれることはできない。それが私が得た答えです。
ー 御書が日本語で書かれていることへの感謝です。御書を原文で拝することができる。それが、どれほど凄いことか。全世界。御書を日本語で読めるのは日本人だけです。
私はゲーテやトルストイ、シェイクスピアの文学は原文で読むことはできません。しかし、日蓮大聖人の御書が原文で読める。それほど素晴らしいことはないと思いました。
ー 御書拝読を通じて数々の御金言がまるで砂金のように私の生命に刻まれました。それが私の財産です。
ー 釈迦の法華経は毎日、勤行で読んでいるのに、御本仏・日蓮大聖人の御書は何故、日々拝読しないのかと思ったことがあります。
勤行は勉強ではないから続くのであると気がつきました。何十年と勤行をしてきても意味すら分かっていない。それは勉強ではないからです。
御書も同じだと思いました。御書を拝していこう。宿命転換の一節に出会うために拝し続けよう。生命から入ることが大事だと私は思いました。
御書に真剣に向き合う自分になれたこと。御書に感動できる自分になれたこと。
それは戸田先生のご指導のお陰です。
「法華経や御書のある部分で急に境地がひらける場合がある」
私の境地がひらけたのは実は戸田先生のこのご指導ではないか!!
今回の投稿を通じて初めて気がつきました。