日興上人の天台宗破折~五一相対の淵源

御講聞書

今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し。如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり。

此の題目を唱え奉る者は心大歓喜せり。

日蓮大聖人の法華経講義を聴聞した門下は、驚いたことでしょう。

題目を唱える歓喜は体感すれど、 「如我等無異」といって釈尊ほどの仏に容易になれるということを、どれだけの人が得心したでしょうか。

多くの日蓮信奉者にとって、日蓮大聖人は釈尊の使いであり、釈尊は尊い姿形を顕し衆生に向かい合う存在、即ち拝する対象ではあってもその釈尊に等しくというのは思いもよらず。

大聖人の説示は権教を破して実教に至るための一表現、と受け止めた弟子檀越が多かったのではないでしょうか。

大聖人滅後に、一弟子の多くとその弟子檀越が釈尊像を本尊としたことが、それを物語っているのだと思います。

一方で日興上人は、駿河の国富士川流域の天台宗寺院で青年時代を過ごし、日蓮大聖人と出会うに及んでその一門に加わりました。

弘安2年の熱原法難に至る妙法弘通は天台宗寺院を舞台として始まっており、天台宗信仰圏で修学研鑽、育まれながら天台宗と相対した、または相対さねばならなかった日興上人は大聖人存命中に天台宗を破折したわけですが、天台宗と日蓮仏法の相違、彼我の違いを理解し、実践で学を深めたことが「日蓮が法門」の真髄に迫り、大聖人亡き後の五一の相対、日興一門の教学として結実したのだと拝察します。

日興上人は日秀、日弁、入信浅い農民信徒と共に、農作業の合間に集まっては曼荼羅本尊に向かい題目を唱えたことでしょう。身延山での師の法華経講義をもとに、文字に暗い農民達でも理解できるように法を説いたことでしょう。

遥か山中の師を思い、富士の峯を仰ぎながら悠々と法を学び、皆で熱き弘教を展開。富士川の清流のごとき、清き信仰に生き抜いた農民信徒たち。

まさに師に直結した「誤れる宗教との法戦」の渦中でこそ、日興上人は日蓮仏法を体得したのだと思いますし、そのことは同時に『偉大な師匠の存命中に「本物の宗教的悪との言論戦」をなすことにより師匠の胸中に迫り、師も出世の本懐をとげることができるのだ』と、未来の門下に教えてくれているのではないでしょうか。

逆にその法戦なくばどうなるのか?

師匠亡き時代に日興上人から破折された日昭、日朗、日向らの国家安泰の祈祷、天台沙門との名乗り、釈迦像本尊。そして彼らの末流の現在の寺院の姿、鬼子母神、水行、観音、地蔵等々が、その答えを示しているのではないかと思います。

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