産湯相承物語(20)
20・主君なり、父母なり 師匠なり
主師親の順番は異なるものの、日教本、保田本の「主君なり、父母なり 師匠なり」という記述が、『開目抄』の「日本国の諸人にしうし父母なり」(全p191) という日蓮大聖人自身が述べられる三徳についての記述を下敷きにしていることは想像に難くない。
しかし、『開目抄』においては、日蓮大聖人が「日本国の諸人」に対し三徳を有しているとされるのに対し、日教本、保田本は「天上天下の一切衆生」に対して主親師の三徳を備えているとしている。
日蓮大聖人の三徳を日本国に止まらせず全世界にまで及ぼしていることからは、日蓮大聖人を自受用報身如来の垂迹、上行号菩薩の再誕として日本に生まれたとして、本地垂迹の関係を逆転させること、つまり日蓮大聖人を釈迦以上の仏と考える思想の萌芽を見ることができると考えられる。
また、「三世常恒に 日蓮は今此三界の主なり」とすることからは、時間的にも正法、像法という釈迦仏の治世を通じても、日蓮大聖人の優位を述べていることになる。
一方、三徳についての記述の見られない御実名縁起においては、「勝釈迦佛」として、より直接的に日蓮大聖人を釈迦に勝る存在として表現していることを考えれば、日蓮大聖人を釈迦以上に重視する傾向は、富士門流内において一般的な理解として存在していたことが窺われる。