産湯相承物語(21)

21・まとめ


 保田本に出雲関連記述が見られることから、保田本の成立は御実名縁起及び日教本よりも遅れることが考えられ、その時期は出雲の日御碕社における十羅刹信仰の発生よりも後のことと考えることには合理性があると考えられる。このため、信仰の発生と奉納に時間的な差があるとしても、保田本の成立時期を、日御碕社に十羅刹が祀られた日蓮大聖人の御入滅後150年を経た頃以降と推定することは合理性があるものと考えられる。


 これに対し、産湯相承の夢物語部分については、「是」字の意義と日輪を懐く夢を伝える『当宗相伝大曼荼羅事』との共通性から考えても、同書の系年とされる日蓮大聖人の御入滅後の77年目から離れた時期を想定しなければならない必要性はないと考える。


また、系年が日蓮大聖人の御入滅後47年目とされる『五人所破抄』に見られる富士・日蓮一体論との類似性を考えれば、日蓮大聖人の御入滅後50年頃までに産湯相承の骨格が成立していたと考えることにためらいはない。


 さらに「遊女」という言葉の持つ意味が13世紀末から急激に悪化することを考えれば、産湯相承の骨格である夢物語の部分については、1300年(日蓮大聖人御入滅後18年目)頃までに成立していた可能性さえ考えられる。


 このように考えれば、夢物語と富士・日蓮一体論からなる産湯相承について、日興上人在世中(1333年(日蓮大聖人御入滅後51年目)以前)の成立を推測することも十分に可能と考えられ、産湯相承の筆者として名前が使用されている日興上人御自身の言葉を実際に反映したもの、または、実際の編纂、筆記者がその様に信じていた可能性が高い状況が考えられる。また、このように理解しなければ、日蓮大聖人の誕生についての夢物語を相伝として伝えたことの説明がつかないと思われる。


 その後、伝承の過程において、真摯な信仰的動機によって文体が整えられて行く中で、出雲関連記述が書き加えられて保田本が成立したことが推測できる。


 それでも、産湯相承は一見すれば、遊女が三国の太夫に嫁ぎ日蓮大聖人を産んだという物語に見える。しかし、上述した考察からは、産湯相承が夢物語として伝えようとした事実は以下のような内容であったと考えられる(〔 〕内は産湯相承の用語による)。

 1205年の〔春3月24日〕、〔平の畠山〕家の〔7歳〕の娘が、〔清澄寺〕で行われた平家を追悼、鎮魂する〔通夜〕に参加し、今後、もしも不測の事態があれば〔三国の太夫〕を頼るようにと教えられた。ところが、その後ほどなくして、北条執権家による御家人潰しの畠山重忠の乱が起こり、梅菊女の両親は討たれて、〔父母に後れ奉り〕という事態が生じた。


 このため、〔三国の太夫〕が梅菊女の身元引受人〔= 夫〕となり、〔遊女〕として〔叡山〕と〔近江の湖水〕の近くで過ごすこととなったが、王の子である釈迦の誕生の時と同じように、〔日輪〕を〔懐〕く夢に象徴される事態が起き、大聖人を懐妊するに至った〔= 月水留る〕。


 そして、あるいは京に在ったが故に避けられなかった1221年の承久の乱による混乱により、あるいはまた、実家に帰って出産するという当時の貴族社会の風習〔= 嫁す〕に従い、幼少の頃のゆかりの〔清澄寺〕に至った。


 清澄寺の道善房〔≒ 虚空蔵菩薩〕は、〔日輪〕に象徴される〔貌吉き児〕の養育〔= 汝に与へん〕と、梅菊女の扶養〔= 煩悩無し〕を〔三国の太夫〕に依頼した。


 生まれながらに〔善日〕とも呼ばれた日蓮大聖人は、出家に際しては俗称であった〔是〕という名の聖(生)なる房との意味から、「ぜしゃうばう(ぜしょうぼう)」と名乗ったが、その名前が示す通り、生まれながらの天下人〔= 日の下の人〕でもあった。

 以上の理解は、あくまでも私的なものであり、こじつけのように思われるかもしれないが、このような捉え方ができることを前提として産湯相承を見るとき、日蓮大聖人に主師親の三徳を観じ、衆生救済の側面を重視することから報身如来の再誕として捉えたこと、また、そのことを伝えるために、数々の讃嘆の文言が加筆されたことについて、いずれも肯定的に理解されるべきと考える。


 言い換えれば、難解な教理ではなく、生まれながらの天下人という実際の事実を背景に、富士門流における日蓮大聖人の本地についての理解ともいうべき日蓮本仏思想を伝えようとしたのが産湯相承ではないかと考えている。


 産湯相承に求められるのは直感的理解であって、テキスト成立への疑義や、学問的理解の困難性という観点に任せて、産湯相承そのもの存在を忽せにしてはならないと訴えて、本稿を終えたい。

 最後までお読みいただいたことに感謝申し上げます。


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