相次ぐ天災地変に~眼前のことを以て仏法のなんたるかを知る

天災地変、疫病に何かを読み取る思考は「立正安国論」に明瞭です。

思えば日蓮大聖人の竜口の死地に至る源は、大地震(自然災害)、疫病、飢餓等を眼前にして立ち上がったことにありました。

安国論御勘由来

正嘉元年[太歳丁巳]八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、同二年[戊午]八月一日大風同三年[己未]大飢饉正元元年[己未]大疫病同二年[庚申]四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ、而る間国主之に驚き内外典に仰せ付けて種種の御祈祷有り、爾りと雖も一分の験も無く還つて飢疫等を増長す。日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験無く還つて凶悪を増長するの由道理文証之を得了んぬ、終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す

正嘉元年以前にも鎌倉は度々大きな地震に見舞われており、日蓮大聖人の生誕以降を確認しただけでもその数の多さに驚きます。

1222年・承久4年(4月13日改元)・貞応元年  1歳

7月23日 鎌倉大地震

吾妻鏡「晴 未の刻大地震」

1223年・貞応2年  2歳

9月26日 鎌倉大地震

吾妻鏡「晴 戌の刻大地震」

1227年・嘉禄3年(12月10日改元) ・安貞元年  6歳

3月7日 鎌倉大地震

吾妻鏡

1241年・仁治2年 20歳

2月7日 翌8日にかけて鎌倉大地震

吾妻鏡

「巳尅、大地震。古老云、去建暦年中、有如今之大動。即是和田左衛門尉義盛、叛逆兆也。其外、於關東、未有如此例〈云云〉。其後午時子尅、兩度小動。」

巳の刻大地震。古老云く、去る建暦年中、今の如きの大動有り。即ちこれ和田左衛門の尉義盛叛逆の兆しなり。その外関東に於いて未だ此の如き例有らずと。その後午の時・子の刻両度少動す。

「八日 丙寅 巳尅地震。昨日兩日之間、動揺五箇」

巳の刻地震。昨日両日の間、動揺五箇度なり

4月3日 鎌倉大地震

高潮により由比の鶴岡拝殿が流失

吾妻鏡

「戌尅大地震。南風。由比浦大鳥居内拜殿、被引潮流失、著岸、舩十余艘、破損」

戌の刻大地震。南風。由比浦の大鳥居内の拝殿潮に引かれ流失す。着岸の船十余艘破損す。

1245年・寛元3年 24歳

12月20日 鎌倉大地震

吾妻鏡

「午尅大地震。」

午の刻大地震。

1253年・建長5年 32歳

6月10日

鎌倉大地震

吾妻鏡

「未尅、大地震。近年無比類。又小選而小動一兩度。」

未の刻大地震。近年比類無し。また小選して小動一両度。

「十三日 乙丑 小雨降。爲地震御祈、於御所被行泰山府君祭。爲親朝臣、奉仕之。後藤壹岐前司基政、爲御使。」

地震御祈りの為、御所に於いて泰山府君祭を行わる。為親朝臣これを奉仕す。後藤壱岐の前司基政御使たり。

そして1257年・康元2年(3月14日改元)・正嘉元年、36歳の時に正嘉の大地震、続く大風、大飢饉、大疫病と大量死・・・・

天災地変と疫病の渦中、既存の宗教がどれだけ祈れどもなんの力も験(しるし)もなし。むしろその存在の意味が問われるような打ち続く惨状。ことここに至って、やむにやまれぬ思いからの「立正安国論」による時の権力者への諫暁。

ここからです。

「立正安国論」を以て諫め、妙法を弘通する故の「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」(開目抄)という忍難弘通の、文字通りの「立正安国への法戦」になったのです。

鎌倉草庵の襲撃、伊豆配流、東条松原の襲撃、蒙古襲来前夜の騒然たる世情の中での僭聖増上慢との攻防。悪党逮捕を名目とした、平左衛門尉頼綱一行による草庵への襲撃同然の捕縛劇。そして深夜に謀殺せんとする竜口の首の座。その時に起きた「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」(種種御振舞御書)という、不思議なる現象。その現象がなぜ、その日その時なのかの議論は横に置きますが、ここから曼荼羅図顕が始まり、「日蓮が法門」の骨格つくりと肉付けがなされてゆくのです。

こうしてみると正嘉の大地震にはじまる天災地変から竜口まで、一直線であったことが理解できるかと思います。

思えば正嘉の大地震をはじめとする自然災害の惨状、その瞬間まで生きていた人々が大量に死んでゆく光景を目の当たりにした日蓮大聖人の憤りは、いかばかりだったでしょうか。

「災害が起きるたびに多くの人が傷つき亡くなり、飢えて倒れて家族が生き別れになり、民の苦しみ嘆きは繰り返され、これで何が政道、善政、何が正法、正しき教えであろうか。政治も宗教も、自然災害の猛威になす術なし。その対応になんの意味があろう。止むことなき衆生の苦しみに何ができるのだろうか」等々。

その憤り、衆生を思うこころの深さに比例して「志」は高いものとなり、それはその後の圧迫、迫害をものともしない、大難をも包み込むほどのパワーに満ち溢れたものだったのではないでしょうか。

故に首切られんとするその時にまで「これほどの悦びをばわらへかし」(種種御振舞御書)と、涙を流す四条金吾を叱咤するほどの境地へと至ったのだと拝します。

大聖人の生きた時代同様、今日も自然災害が発生しては甚大なる被害をもたらし、止むことがないのが現実です。天災地変から始まった「竜口へと至り、新たに始まる物語」。それは時と場所を変え、登場人物を入れ替えながら、今日も続いているように思うのです。