産湯相承物語(11)

11・自受用報身如来


 産湯相承では、日蓮大聖人の誕生に際して来下した諸天が「本地自受用報身如来ノ垂迹 上行菩薩ノ御身ヲ 凡夫ニ謙(へ) リ下リ給」 と述べたとされる。
日蓮大聖人の内証を上行菩薩とすることは、大聖人の高弟の間では共通の理解とされていたと考えたいが、産湯相承ではさらに上行菩薩の本地を「自受用報身如来」として伝えている。


 しかし、自受用報身如来という用語は真蹟の残っている御書に見られないのみならず、他には『本因妙抄』と『百六箇抄』(この2書は併せて「両巻抄」と呼ばれている。)にしか使用されていないことからは、産湯相承の少なくとも当該部分が、日蓮大聖人からの口伝かどうかはともかくとして、両巻抄と関係があること、つまり、産湯相承が両巻抄の内容に触れることのできた人々の間で成立したことを示すことが考えられる。


 両巻抄と産湯相承は、自受用報身如来という言葉だけでなく、勝釈迦仏とする御実名縁起、三界の主とする日教本、保田本とともに、日蓮大聖人を釈迦以上の存在と見るという基本姿勢において共通しているが、このことはまた、『百六箇抄』が日尊門流ではなく、富士門流において成立した可能性を示すことになるとも考えられる。つまり、仮に、日教が『百六箇抄』を日尊門流から富士門流に持ち込み、そこにあった自受用報身如来という用語が産湯相承に入ったという順だとすれば、日教本、保田本にそれが存在することは容易に説明がつくものの、御実名縁起と日教本とでは伝承内容に差異も見られる ことから、同様の経緯で同時期に御実名縁起にも加えられたと見ることには無理がある と考えることによる(注)。


 なお、「自受用報身」という用語であれば『御講聞書』 や『御義口伝』 に見られることから、日蓮大聖人在世からの使用も考えられるし、日蓮大聖人に衆生を救済するという視点がなかったとは思えないことから、衆生救済の側面に着目して日蓮大聖人の存在意義を伝える場合に、報身を中心に見ることについても、ある意味、当然の帰結と考える。


 また、産湯相承は日蓮大聖人からの相伝ではなく日興上人の筆記として伝えられていることから、日蓮大聖人在世中の成立は最初から想定されていないだけでなく、日蓮大聖人のことを自受用報身の仏と捉えることは、日蓮大聖人没後において日蓮大聖人を仏の如く敬い給仕を行った日興上人及び富士門流における自然の展開とも考えられることから、自受用報身如来という用語の存在をもって、産湯相承の夢物語の存在を否定する理由にはならないと考える。

(注)ただし、御実名縁起の筆写の時点(1496年)が『類聚翰集私』の成立(1488年)よりも後のこととされるため、このような理由により完全に否定することはできない。

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