産湯相承物語(10)

10・諸天来下、竜王荷来


 産湯相承は、日蓮大聖人の出生時の様子を「梵天帝釈四天王等ノ諸天 悉ク来下シテ」と描写し、また「阿那婆達多龍王 八功徳水ヲ持来テ」と説き、「龍神王 青蓮華ヲ一本荷来リ」と記述する。


 もとより夢の続きであって現実ではないであろうし、その夢の内容を日蓮大聖人から伝え聞き文字化したのが日興上人かどうかはともかくとして、日蓮大聖人の最晩年から没後にかけての様子を直接見知り、又はその時代の様子を伝え聴くことのできた弟子により形成された伝承とすれば、産湯相承の描く「来下」「来テ」「来リ」との情景については、身延への相次ぐ要人、弟子の来訪の状況を下敷きとして描き出したものと見ることができるのではないだろうか。


 日蓮大聖人御在世の身延の様子については、「人ぶなくして・がくしやうどもをせめ・食なくして・ゆきをもちて命をたすけて候」(全p1542)とか 、「石は多けれども餅なし・こけは多けれどもうちしく物候はず、木の皮をはいでしき物とす」(全p1587) などの表現から、人手もなく食べ物もない寂しい状況 が想起されるものの、例えば、『下山御消息』には、「さるべき人人」(全p343) が身延を訪ねて来ることについて、日蓮大聖人が断っていることが描かれているが、その「さるべき人人」とは『下山御消息』の用語(p355)に従えば、幕府直轄地にあった松葉が谷の草庵の襲撃に同意を与えることのできた地位、つまり幕府中枢にある複数の人を指していることになる。


 また、内記左近入道と称される名前から大内記職(注1)にあったことを窺わせる人物が、「経於多国御使」(注2)(多くの国を経ての御使い) というように日蓮大聖人の布教圏外の遠隔地(恐らくは京都)から訪ねて来ていることからも、大聖人晩年の身延へは、存外、多くの要人の来訪が考えられる。


 さらに、身延に多くの弟子が滞在していたことは「人はなき時は四十人ある時は六十人」(全p1099) とか、「今年一百よ人の人を山中にやしなひて」(全p1065) と記されることから明らかであり、このような、ある意味賑やかな状況が投影され、諸天の来下とか竜神王が青蓮華を荷ない来るというような表現に繋がっていったのではないかと考えている。


(注1)詔勅、宣命を作成し、宮中の記録を司った職。


(注2)小林正博著『日蓮の真筆文書を読む』第三文明社2014年p300

前の記事

産湯相承物語(9)

次の記事

産湯相承物語(11)