令和2年 5月度 座談会御書 開目抄
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」
(御書P234 7行目~9行目)
通解
「私及び私の弟子たちは、たとえいかに多くの災難があっても、法華経の教えを信じて疑う心がなければ、おのずから仏界に至ることは必定である。諸天の加護がないからと疑ってはいけない。この世が安穏でないからと嘆いてはならない。私の弟子たちにはいつもこのように教えてきたけれども、たびたびの受難によって疑いを起こして、皆捨ててしまったであろう。拙い者の常として、折角約束したことを本当に大事な時には忘れてしまうのである。」
受難と成仏、これは開目抄の一貫したテーマでもあります。
法華経を唯一無二に信じ持つ者は必ず「現世安穏・後生善処」であり、諸天は喜び守護すると教え導かれてきたのに、却って種々の迫害に遭うばかりか、その教主であり頼みにしていた日蓮大聖人ご本人は、龍ノ口の首の座から佐渡へ流罪され、塚原三昧堂という劣悪な環境の中へ追いやられてしまった。
法華経の行者がいったい何故このような難に遭うのか、何故諸天の加護がないのか、現世安穏のはずではなかったのか、それは、まさに大聖人に従って来た人々の最大の動執生疑でありました。
ここに、ご自身最悪とも思える状況下にあって、末法における真の成道のありかたを門下一同に教えられたのです。
それは、世間の相対的「安穏」から仏法の説く絶対的「安穏」へ、相対的「幸福」から絶対的「幸福」へ向け、受難こそがそうした本当の成仏への因であり、不退の「信」だけがそれを成し遂げる要諦であることを自身の振舞いを通して示されました。
ところで、苦楽に就て考えてみますと、苦のないところに楽はなく、楽が無ければ苦もありません。苦楽は本来縁起不二であります。苦は楽の因となり、楽は苦の因となり交互に因果をなして連続するのが苦楽の体性です。これを避けようとすれば苦の因は楽の果とはならず、楽の因ばかりを追えば苦果は更に重なるものです。
このことを大聖人は次のように明快に言われています、
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき、苦楽共に思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや」(御書P1143)と。
苦難は来るべき楽の因であり、苦は避けるものではなく受け入れて立ち向かうものとさとれ(覚)ば、却って乗り越えることが楽しみとなる。また、楽は次の新たなる成長のための来るべき苦を迎える準備(因)であるとひらけば、楽に溺れることなくこれを楽しむことができる。こうして苦楽を思い合せて南無妙法蓮華経に照らしてみれば、苦楽はともに真の「楽」、まさに自受法楽ではありませんか。
更に一歩進んで 法華経受持によって起こる大難は、まさに成仏という大楽の因でありますから、その時こそ、いよいよ信心を奮い起こしていくべきであると教えて下さっているのです。そして、「我並びにわが弟子」と呼び掛けられた大聖人ご自身は、
「詮ずるところは天も捨て給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」(同P232)
と、末法の法華経の行者としての決定したご心境を述べられて、わが弟子もこの心地に立てば成仏は不求自得、即ち自然に仏界に至るのであると教えられています。