産湯相承物語(5)

5・遊女


 産湯相承は日蓮大聖人のご誕生を伝える物語であることから、その母上についての記事は重要な意義を持つと思われる。しかし、保田本、日教本にあって御実名縁起にない記述として、梅菊女が「遊女」の如くなったとすることがある。


 保田本、日教本は、遊女が三国の太夫に嫁ぐというストーリー順で構成されているが、日蓮大聖人の父上の社会的身分について、現在の通俗的な理解のように旃陀羅であったと考えれば、その配偶者として梅菊 女という名前から類推される社会的地位の低いとされる遊女を設定することも考えられなくはないし、書写の時点において、むしろそれが相応しいことと考え、書き加えられたと推測することもできる。


 しかしながら、産湯相承においては日蓮大聖人の父上を旃陀羅とはしていないだけでなく太夫と呼称しており、これを文字通りに解すれば五位の貴族であり、また、太夫との呼称を俗称と解しても相当な有力者を指すと考えられることからは、その配偶者として社会的に身分の低いとされる女性像を設定する必要性は存在しないし、却って不自然とも考えられる。


 御実名縁起については書写を途中で中止したことが記されており、詳細な比較ができないことから、日教本との成立の先後を窺わせるだけの内容の差を指摘できないものの、文体、表現の巧拙からは、御実名縁起の方がより素朴な箇所が多いことから、御実名縁起の書写の元になった原典は、日教本よりも素朴な表現であったことが考えられる。


このことから、御実名縁起の原典、日教本、保田本の順に、重層的に成立したものと仮定すれば、御実名縁起に見られない「遊女」の語については、まずもって日教本の書写・成立時期に書き加えられたことを疑うことになる。


 また、この点に関連して、日教本と保田本に共通して見られる「嫁」ぐという言葉に表象される嫁取婚が、貴族以外の一般社会に広まるのは室町時代以降のこととされるので、御実名縁起に見られない「御身の父に嫁げり」との解説的表現は室町期に至って付加されたことが考えられる。


 一方で、遊女の社会的地位が劇的に低下するのが13世紀末頃 からとされることから、相伝の蒐集に当たり、遊女という書写の当時既に言葉それ自体に抵抗を抱かせると考えられる創作をわざわざ加えて解説を施すことは考え難いことから、遊女という言葉自体は産湯相承の夢物語の成立の初めの頃から存在し伝承されていたことが考えられる。


 また、日蓮大聖人の御生まれが1222年であり、母上である梅菊女の懐妊が1221年(13世紀上旬)となることからは、その当時の社会一般は妻問婚の時代にあるものの、貴族階級においては嫁取婚(擬制入婿婚)であり、そこに社会的地位が低いとはされない遊女の入嫁というストーリーであれば、遊女という言葉の存在を不自然と考える必要はないことになる。


 いずれにしても、遊女という言葉が使用されていること自体が、産湯相承の夢物語の成立時期が遊女の地位が低下するより以前、すなわち13世紀末(鎌倉時代中期)以前に遡る可能性を示していると考えられる。


 さらに、梅菊女という名前は遊女、白拍子を連想させることからも、夢物語の成立の初期の時点で、梅菊女の名前とともに遊女の記述が併存していたと考えることは十分に可能と考える。


 なお、梅菊女を仮名表記すれば、「うめきく」女であるが、草書体の仮名の「か」=「可」の字体は、「う」=「宇」の字体に良く似ていることから、元々は「うめきく」ではなく、「かめきく」であった可能性は否定できない 。


 このことから梅菊女を亀菊に比定して、日蓮大聖人の父上を後鳥羽上皇にまで繋げる説があることの是非については措くとしても、亀菊という白拍子、遊女が上皇に寵愛されたという歴史的事実からは、鎌倉時代中期以前における遊女の地位が決して低いものではなかったことは窺えるし、保田本、日教本における遊女という記述の存在を不自然なものと考える必要もないことになる。


 しかしながら、このように捉えても、テキストとしてより素朴な表現をとる御実名縁起に遊女の記述がないことは説明がつかない。


 最初に思いつく言い訳は、御実名縁起と日教本の書写した原典自体の相違だが、そのような説明は日教本が書写した原典に書き足されたことと同じことになるので意味がないように思われる。


 むしろ、御実名縁起は、原典からの抜き書きであることを「事多中ニ 今ノ御夢想共斗(ばかり)  抜テ書之也」と明示するだけでなく、「不審ナル故ニ 略之也」とも記していることからは、原典に記載がある事柄について書写しない項目を記載するという厳格な態度で臨んではいても、疑いを持った内容については記載しないという姿勢で一貫しているとも言え、書写の時点においてはすでに社会的地位が著しく低下していた遊女について、日蓮大聖人に対する尊崇の念から、遊女との名称に触れることすら憚り、敢えて書写しなかったと想像するに難くないだけでなく、冒頭からそのように措信できない内容が含まれていたからこそ、富士・日蓮一体論についても書写しないという判断に繋がったのではないかと考える。


 それでも、御実名縁起について、日蓮大聖人の母上の法号の妙蓮については元々存在しなかったと推定しながら、遊女という表現については御実名縁起に書写されなかったと考えるのは、ご都合主義的に過ぎるとの批判を受けることは避けられない。

(上述のとおり、妙蓮との表現は、御実名縁起の書写の原典になかったと考えているが、仮に、原典には存在していて敢えて書写しなかったとの結論を採るのであれば、それは、書写の時点において、書写した日意にとっては、自明、既知のことであったが故に、省略されたと考えるしかない。)

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