産湯相承物語(6)

6 用語の意義Ⅰ(隠喩)
・通夜


 産湯相承を文面通りに読めば、鎌倉幕府の重役であった平姓の畠山家の娘の梅菊女が、3月24日 に清澄寺に通夜し(注1) 、三国の太夫に嫁すという物語と解されるが、保田本は通夜した年を「其ノ歳」とし、日教本と御実名縁起は7歳 の時としている。


 ここにも書写に伴う変容を窺うことができるが、7歳という年齢については、竜女の成仏 をベースとして梅菊女の祈りに信仰的意味付けを与えた創作と考えられなくもない(産湯相承のストーリー全体を創作と考えることは措く)(注2)。
 しかし、ここでは梅菊女自身の悟りを強調する場面ではないことから、文字通りに7歳の時の出来事であったと考えたい。


 この場合、7歳の娘が清澄寺で通夜するということの不自然さだけでなく、保田本、日教本に従えば、遊女についての記述は、通夜で夫を定める記述よりも後ろに置かれていることから、7歳で太夫という有力者(又は貴族)を夫として定めた後に遊女になり、その後に再び太夫に嫁すという、理解に苦しむストーリーが描かれていることになる。


 この不都合を回避するために、保田本の書写時点において、遊女が太夫という有力者(又は貴族)に嫁したというシンデレラストーリー的な解釈を施し、7歳の「七」の文字について、「其」字 の草書体の起筆部分を欠いたものと理解し、7歳から「其ノ歳」への書換えが行われたことが考えられる。


 また、梅菊女の通夜を、北条家による御家人潰しである畠山重忠の乱に関連したものと考えれば、畠山家の7歳の娘が清澄寺に難を逃れて、三国の太夫の紹介 により管弦技能集団(遊女、白拍子 )において梅菊女という名前となり、その後、日天子に象徴される子を懐妊し、出産に伴い清澄寺を頼って帰郷したという物語を窺うことができる。


 ここで、三国の太夫を夫ではなく養父・後見人のように解する理由は、7歳の梅菊女が1205年に清澄寺に難を逃れたと仮定すれば、その時点における太夫と称されるような人物であれば(官位が五位の貴族ではないとしても)、日蓮大聖人を懐妊する1221年にはすでに老境にあるとも考えられ、日蓮大聖人の父として想定することに無理があると思われること、清澄寺で通夜して太夫を「夫」に定めた後に遊女になるという不都合なストーリー順ではなくなること、御実名縁起には「嫁」すという表現 ではなく「夫妻定テ後」としているが、これは夢の直接の内容ではなく書き手による解説であること、鎌倉期以前の嫁入婚は貴族階級のみに見られる擬制入婿婚であり、入嫁先の近くに養父宅の存在を必要とすること、また、梅菊女が通夜の際に夢想で聞いた「是ヲ夫ニ定ヨ」という「夫」の字についても、男性配偶者の意味以外に、夫役とか人夫などの用例に見られるように、何がしかの役割を負担する人という意味が考えられること、また、「夫」の字は「扶」の字と通用されることがあり、その場合は言うまでもなくたすける人という意味を持つこと、さらに、律令制の下での女性の婚姻可能年齢は13歳とされていたことから、7歳での婚姻を夢の内容ではなく夢に続く現実での出来事として解説していることに、物語としての飛躍が感じられることによる。


 これらのことから、産湯相承における梅菊女の7歳の婚姻については、両親の死亡の後、三国の太夫が梅菊女に対し、何らかの援助を行ったことを比喩的に示していることが考えられる。


(注1)3月24日は平家滅亡の日(壇ノ浦の合戦の日)であることから、梅菊女が平家(平姓の畠山家)の出自であることを強調するために付加された可能性も否定できないと考える。また、清澄寺は北条政子の帰依を受け栄えていたことから、幕府内の争いにあって、比較的安全な場所でもあったのではないかと考えられる。


(注2)竜女の成仏は8歳とされるが、正法眼蔵75巻本の28「禮拝得隨」巻では「佛法を修行し、佛法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸佛如来にひとしかるべし。これすなはち佛道の古儀なり。」として、7歳の少女を龍女成仏の例として挙げている。

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