【投書】背教者原田一派をどう見破るか?

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投書者:カナリア


「原田執行部の大罪」について、個別の数々の罪はどなたかの整理に委ねるとして、私自身としては、原田執行部が師匠池田先生を完全に裏切っていること、すなわち既に「師敵対」の存在になりきっている事が、「究極の大罪」なのだと思う。創価学会とは、生命尊厳の仏教思想、その真髄が、日蓮仏法(日興門流)に流れていることを前提として成り立つ宗教団体である。そしてその哲理を現代において、あらゆる分野に展開されたのが三代会長である。その故に、三代会長就中、池田先生は永遠の師匠なのである。

2023年11月15日に池田先生はご逝去。3日後の11月18日付で「創価学会教学要綱」は出版された。日蓮本仏論を事実上否定し、法宝を御本尊から題目に変更し、僧宝を日興上人から創価学会に変更した内容は、明らかに三代会長の講義解釈・ご指導に弓を引くものだ。

男子部教学室なる者が、教学要綱は「原稿を何度も池田先生に報告し、その都度、ご指導をいただいて作成されたものである」などと述べているが、当時95歳、老衰で亡くなられたとされる先生が、監修などしている訳がないのだ。それでも嘘を言い続けるなら、具体的に、いつ、だれが、どこで、どういうご指導を承ったのか、説明責任を果たすべきではないか。

池田先生は1960年5月に会長就任してより、奇しくも50年後の2010年5月まで、表舞台で様々なご指南をして下さった。一方、教学要綱は、「文底仏法」や「人法一箇」を一切認めない。事実上身延派と同様となり、釈迦本仏論を振りかざすものになった。しかし、先生の50年間のご指導のどこに、そんな誤った邪義の仰せがあるのか?お師匠様に違背して、根本教義を理由も説明なく変更する。これに勝る大罪があろうか?完全なる「師敵対」なのである。

創価高校・大学4期の図斉氏が、先生の法華経方便品・自我偈講義をはじめ、御義口伝や近刊の学会出版物の内容が、如何に先生の講義・ご指導と異なってしまっているかを「論考」として比較し、まとめて下さっている。これらは執行部の「師敵対」の証拠を後世に残す、極めて貴重な物証となろう。須田晴夫氏の著書『「創価学会教学要綱」と日蓮本仏論の考察―仏教史の視点から―』(鳥影社)とあわせて、学んでいきたい。

「人本尊開顕の書」といわれてきた日蓮大聖人の「開目抄」に、以下の有名な御文がある。

「一念三千の法門はただ法華経の本門寿量品の文の底に沈めたり」究極の一法である南無妙法蓮華経は、文の底に沈めたと。すなわち日蓮仏法は「文底仏法」を基本とするのである。

これさえ認めないということは、執行部は宗教批判の原理、「五重の相対」の第五、種脱相対も受け入れないという事になる。また、「法本尊開顕の書」といわれる「観心本尊抄」の末尾に、以下有名な御文がある。

「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給ふ」

釈迦仏法では成仏出来ない末法の我々に、

「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」

と、御図顕・遺して下さった御本尊様。現執行部は釈迦本仏論を正当化するために、三代会長のご指導の改竄を行っている。しかもそのやり方は、姑息、卑怯、無責任。会員には何の説明もせず、既成事実化を着々と進めている、まさに詐欺的な手法。

日蓮正宗は「法主絶対論」や「僧が上で信徒は下」などと言いだし日興門流からはずれ、結果的に宗門と学会は離別した。しかし、日興門流の教義と宗門(日蓮正宗)とは、区別して考えなければならない。三代会長は日興門流を貫いた。その事を含めて、あまたいる副会長諸氏、各方面の方面長、47都道府県の長、そして総県長、分県長、区圏長各位。あなた達は池田先生から、何を教わってきたのか?原田執行部が認めた教学要綱の言い分と、池田先生が残された講義・指導と比較してみてほしい。それでもあなた達は、「時の流れには逆らえません」とでも言い続けるのですか?
だとしたら、あなた達には二度と「池田門下」を名乗る資格はない

最後に「四条金吾釈迦仏供養事」(御書全集P1146)を、あなた達に以下贈りたい。

「恩を知らざる者は多く横死に遭う」
すなわち

「不知恩の者は横死有り」

あなた達は、どれ程の恩を、先生から受けたのですか?

臨終を迎える前に、今一度思い出すべきではないでしょうか。

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