【投書】<悪の凡庸さ>を問い直す を読んで

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投書者:カナリア


大月書店 「<悪の凡庸さ>を問い直す 田野大輔・小野寺拓也編著 香月恵理・百木漠・三浦隆宏・矢野久美子著」
を読んだ。
「アイヒマンは組織の“歯車”ではない!」
が副題である。

<悪の凡庸さ>とは、一般的に、ごく平凡な人間が職務の遂行を通じて、巨大な悪の加担者になってしまう事態を指すものと理解されている。1961年のアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントが、著書「エルサレムのアイヒマン」のなかで提起した概念である。

この概念は現在、彼女の説明の曖昧さもあって、ユダヤ人大量殺戮=ホロコーストの主導者の一人であるアドルフ・アイヒマンを、職務に忠実なだけの<凡庸な役人>、上からの命令を伝達する「歯車」と見るようなイメージの理解に繋がっている。

またアイヒマン裁判の翌年に行われたミルグラム実験(多くの一般人が権威に服従してしまう事象)が、後に「アイヒマン実験」と称されることも<悪の凡庸さ>の概念形成に大きな影響を与えていると思われる。

しかし、ナチズム・ホロコースト研究の分野では、アイヒマンは自分が何をしているのかを明確に理解しているばかりか、それをドイツ民族にとって正当なこと、ユダヤ人の絶滅は自らの歴史的使命とまで考えていたことが明らかになっているという。

著者のお一人である百木氏によれば、
『アーレントは決してアイヒマンを「上からの命令を粛々とこなした小役人」や「法規や命令を遵守するだけの杓子定規な官僚」として描いていない。そうではなく、アーレントが描き出したのは、出世の貪欲で、自己顕示欲が強く、各所と交渉を重ねながら、命じられた以上の成果を達成させていく有能かつ野心的な男の姿だった』
と述べている。

また、
『たとえ全体主義体制にあっても、「自分は組織の歯車だったのだから、自分自身に責任はない」と言った言い逃れは通用しない。(中略)「政治において服従と支持は同じもの」と捉えなければならない。(政治とは子供の遊び場ではない)というのが{エルサレムのアイヒマン}の結論であった』
と。

文中に、
『信奉する理想のためには悪をもなしてみせようといった決心や覚悟もなく、ただ仕事上の手柄をあげることだけを目的として、歴史上類を見ない大虐殺に加担したという点に、アイヒマンの異様さがある』
という指摘がある。

この個所を読んだとき、私の脳裏には、ピピっと、巨大宗教団体創価学会に存在する、「職業幹部」達の顔が、次々に浮かんでしまった。

彼等彼女等は、自らの意志で動いているのである。寄って立つ立場で、物の見方は、それほどに変わってしまうものなのか?
私には「不知恩の愚か者」としか思えないのだが・・。

『彼(アイヒマン)のなした悪は、「邪悪さ、病理、あるいはイデオロギー的な確信などから説明できないもの」であり、その実行者の特徴は、「異例なほどに浅薄」ということだったのだ。アーレントの言う「凡庸さ」とは、つまるところ、このような「浅薄さ」、別現すれば「薄っぺらさ」を指すものだったと理解すべきではないか。』

著書の中では、社会に流布している<悪の凡庸さ)をテーマに、思想研究者と歴史研究者の視点の違いなど、様々な見方が語られて難しいが面白い。しかし私にとっては、前述したように、宗教団体に従事し禄を食む「職業幹部」は元より、各地域に存在する民間大幹部に於いてもが、三代会長の残された指導原理を、ここまで歪めてしまう一つの理由を、垣間見るような気分にさせられた著作であった。

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