【投書】「正法の教団が なぜ滅びるのか?」

JIKATSU投書アイキャッチ

投書者:SHG


「仏法の正統を受け継いだはずの教団が、その後、滅亡の道をたどってしまうのはなぜでしょうか」という青年部員の問いに、池田名誉会長(以下、「池田先生」と記す)は次のように答えられている。

【引用】『これは、「広宣流布」の未来にとって、根幹中の根幹の問題です。
「正法の教団」がなぜ「正法」を失うのか。
端的に言えば、いくら「法」が正しくとも、それを受け継ぐ「人」が師弟の道を忘れるからです。
(中略)
日本天台宗は、途中から真言密教を取り入れ、「法華経第一」という根本義を忘れてしまった。 その理由は要するに、後継の座主(法主)が、師匠である伝教大師に背いたからです。
(中略)
大聖人は、彼らの本質を、“表面では師を尊敬しているようで、内心には、師匠を見くびる傲慢さがあった″と喝破されている。
「我が師・伝教大師はいまだ此の事をばくはしく習せ給わざりけり 漢土に久しくもわたらせ給わざりける故に此の法門はあらうちにをはしけるや とをぼして」(御書全集p280)
すなわち、天台宗の人々は内心でこう思っていた。
「我が師・伝教大師は、真言の素晴らしさについては、いまだ詳しく勉強されなかったのだ。本場の中国にも長く留学されたわけではないし、この真言の法門については、おおまかに、ざっと学ばれただけなのだ」――と。
彼らは、“原点”である伝教大師の名前と権威を利用しながら、大師を心の底で軽んじていた。 そのために、比叡山は邪義に染まっていった。 そして日本中を謗法の国にしてしまった。
外見は伝教大師の弟子、内心は自分本位(師の教えに違背)―― こうした姿を、大聖人は「コウモリ」に例えられている。
「蝙蝠鳥のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず」(御書全集p310)
結局、コウモリのような、どっちつかずの「信心」、中途半端な「弟子」が、正法を滅ぼし、自分のみならず、多くの人々をも不幸に落とすのです。
(「青年とのつれづれの語らい」『創価のルネッサンス 31』p22~24)

伝教大師の弟子達の多くが、師匠・伝教大師は「本場の中国にも長く留学されたわけではない」として「内心には、師匠を見くび」っていた、ということは、彼らが 当時の日本の世間における中国仏教の権威 を 師匠・伝教大師の教えより重く見ていた、ということである。彼らにおいては、世間的な権威への「信仰」が 師匠・伝教大師の仏法への信仰を上回っていた、ということになる

ここで想い起こされるのが、大聖人門下で 後に退転した三位房のことである。
池田先生は次のように言われている。

【引用】『三位房は、早くから大聖人の門下となり、その才知や弁舌によって頭角を現していった。 彼は、京、比叡山に遊学した。
当時の比叡山は、いわば「最高峰の仏教大学・総合大学」ともいうべき存在であった。 それゆえに、比叡山で学んだということは、今でいえば最高の学歴を得たことに通じるともいってよい。しかも、京は華やかな貴族の都である。
三位房は、この遊学で 世俗的な権威に目がくらみ、すっかり心を乱してしまった。』
(全国最高協議会 2006年9月22日)

「華やかな貴族の都で」「最高峰の仏教大学・総合大学ともいうべき比叡山で学んだ」というプライド、経歴・学歴へのこだわり が、三位房の心に深く喰い込んでいったと考えられる。

三位房は、京に上った後、名前を、後鳥羽上皇の名前である「尊成」と変えたという。
大聖人が、世間的権威など歯牙にもかけられず、御自身を「旃陀羅が子」(佐渡御勘気抄)、「海人が子」(本尊問答抄)、「賤民が子」(善無畏三蔵抄)、「民が子」(中興入道消息)と称されたことと対称的である。

【引用】『三位房日行は、学もあり、門下の長老でありました。 比叡山に遊学もしているし、竜象房をものの見事に破折する等、学に秀でていた。 弁も立つ人であった。
しかし、才知に慢ずるところがあり、また「御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事・かへすがへす不思議にをぼへ候」とあるように、世間の権戚に弱く、一閻浮提第一の法門を持する誇りと自覚に欠けていた。
「日蓮をいや卑しみてかけるか」と指摘されていますが、京の貴族の権威よりも大聖人の仏法の存在を下にみる心があったようです。』
(「生死一大事血脈抄」講義・池田大作全集・第24巻)

「京の貴族の権威」といった世間的な権威「よりも大聖人の仏法の存在を下にみる心があった」ということは、三位房に於いては 大聖人の仏法への信仰よりも 世間的な権威への「信仰」の方が勝(まさ)っていた、ということに他ならない。
それは、伝教大師に背いた弟子達において、世間的な権威への「信仰」が、師匠・伝教大師の仏法への信仰を上回っていたことと同じである。

大聖人は、伝教大師に背いた弟子達を「蝙蝠鳥(コウモリ)のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず」(報恩抄)と言われているが、三位房に対しても 「ねずみが かわほり(コウモリ) になりたるやうに」(法門申さるべき様の事)と言われている。

まさに池田先生が言われるように、「外見は伝教大師の弟子、内心は自分本位(師の教えに違背)」といった「 コウモリのような、どっちつかずの「信心」、中途半端な「弟子」が、正法を滅ぼし、自分のみならず、多くの人々をも不幸に落とす」(上掲『青年とのつれづれの語らい』)ということになる。

東京大学出身をはじめとする 所謂「一流大学」出身の創価学会の最高幹部についても同じ事が云えるのではないだろうか。

(カナリアさんの御指摘『真っすぐに歪んだ学閥意識!』へのコメントでも書いたが)原田会長は、朝日新聞のインタビューで、
『山口代表は後輩でもあり、意思疎通は図っています。』
(「インタビュー 創価学会はどこへ 創価学会会長・原田稔さん」朝日新聞2016年9月22日)
などと、東大卒の山口・公明党代表を引き合いに出して「東大出身」であることをアピールしている。

東京大学出身の人の中には、たしかに立派な業績を残している優れた人たちもいるが、そういう人たちは普通、学歴には頓着しない。

学歴にこだわり、「東大出身」アピールをするのは、大抵、自分と自分がやってきたことに自信が持てない連中である。 自信があれば、「東大出身」アピールなどする必要がないからだ。
あるいは、日本社会の上層部・エスタブリッシュメントに根を張る東大閥などの学閥のコネクションに依存していて、自分の立場を優位に保とうとする連中である。
彼らは、「東京大学卒」の「印籠」、学歴の権威 への 度し難いほど強力な「信仰」を持っているように見える。
こちらが いくら道理を尽くして意見・批判をしても、「所詮、東大を出ていない人間の言うこと、ひがみ」としか受け止めない傾向がある。
彼らが批判を受け付けるとしたら、ハーバードやケンブリッジ、オクスフォードなど より「上の」世間的な権威からの批判だけかもしれない。

「薩長にあらずんば人にあらず」的な、「東大出身にあらずんば一流にあらず」といった学歴・学閥主義は、「所詮は東大を出ていない人間の ひがみ」といった人間蔑視を伴いがちだが、一般に:
「所詮は貧乏人の ひがみ」――、
「所詮は黒人(有色人種)の ひがみ」――、
「所詮は後進国の ひがみ」 ――、
といった、「差異へのこだわり」が生む傲慢な差別意識によって、対話を蔑ろにし 道理を受け付けなくなる傾向が見られる。

池田先生は、たびたび学歴主義に対して警鐘を鳴らされている:

【引用】『戸田先生は、「信心に学歴は関係ない」と断言された。
(中略)
学歴などを鼻にかける人間が幹部になれば、会員はだれもついていかないぞ、皆がかわいそうだ、と厳しく言われた。
(中略)
有名な学校を出たとか、社会的な地位があるとか、そんなことは、信心には、まったく関係ない。』
(首都圏代表協議会 2007年5月19日)

【引用】『高い学歴ゆえに増上慢を起こせば、信心を狂わし、和合僧を濁らせてしまう。

(中略)
牧口先生は、「上流に立つ指導階級の流す無意識の害毒が、いかに重大であるか」とも戒めておられた。
上に立つ幹部が見栄っ張りになり、学歴などを鼻にかけて増上慢になってしまえは、清浄無比な創価学会の世界に毒を流してしまう。』
(全国最高協議会 2006年9月22日)

(私の憶測になるが)このように池田先生が いくらスピーチで学歴主義を批判されても、「学歴」信仰の強い有名大学出身の最高幹部たちは、心の底では「所詮、一流大学を出ていない池田大作の ひがみ」という思いが抜け切れなかったのではないか。

「学歴」という世間的権威を崇める有名大学卒の学会幹部たちは、―― 池田大作は「自分は戸田大学を卒業した」と言っているが、所詮は短大出(富士短期大学卒)で まともな教育を受けていない ―― という思いが抜けなかったのではないか。
短大卒の池田先生を心の底で馬鹿にして見くびっていたのではないか。
伝教大師の弟子達の多くが「“原点”である伝教大師の名前と権威を利用しながら、大師を心の底で軽んじていた」ように、有名大学出身の最高幹部達は、“原点”であるはずの師匠・池田先生の名前と学会内での「権威」・求心力(=会員の信頼)を利用しながら、池田先生を心の底で軽んじていたように思われてならない
まさに ”外見は池田先生の弟子だが、内心は自分本位(師の教えに違背)” といった ”コウモリのような中途半端な「弟子」” の姿に見える。

● 伝教大師の時代、当時の日本における中国仏教の権威を崇め奉って、伝教大師を心の底で見くびっていた伝教大師の弟子たち(慈覚ら)。

● 大聖人の時代に「公家」「朝廷」という世間的権威を崇め奉って、大聖人から「日蓮を賤しみて書けるか」(「法門申さるべき様の事」)と叱責された三位房。

● 現代において、「東大(など「一流大学」)出身」という世間的権威を崇めて、短大卒(富士短期大学卒)の池田先生を心の底で見くびっていたであろう有名大学卒の学会上層部。

こうして見ると「正法を滅ぼ」す人間の共通の特徴が浮かび上がる。まんまと世間、国家に洗脳されて 世間的権威を無批判的に崇め奉る 習いそこないの増上慢の弟子たちが、世間的権威でもって師匠を侮り、裏切っていくと考えられる。

こうした ”外見は弟子だが 内心は自分本位(師の教えに違背)”といった「 コウモリのような…中途半端な「弟子」が、正法を滅ぼし、自分のみならず、多くの人々をも不幸に落とす」のである。

池田先生は次のように言われている。

【引用】『戸田先生は、「信心に学歴は関係ない」と断言された。
当然、学問は大事にされた。 しかし、学歴などを鼻にかける人間が幹部になれば、会員はだれもついていかないぞ、皆がかわいそうだ、と厳しく言われた。
(中略)
学会の庶民の力で偉くしてもらいながら、大恩を忘れ、傲慢になり、最後は裏切って、反逆していく──そんな畜生以下の人間が出たならば、断じて許すな、その大罪を未来永劫に糾弾し抜いていけ、と恩師は厳命されたのである。
「私がいなくなった後が怖いぞ」「増上慢に勝手きままにやられるぞ」「それをさせないために、私は厳しく言うのだ」と。』
(首都圏代表協議会 2007年5月19日)

われわれは今、まさに 師匠・池田先生「がいなくなった後」を迎えている。

【投書】「正法の教団が なぜ滅びるのか?」” に対して1件のコメントがあります。

  1. カナリア より:

    先生のご指導、御書を通して、とても端的に、本質を顕して下さりありがとうございました。自分の頭で整理できていないことが、すっきりした感じです。
    先生はきっと、予期されていたのだと思います。不知恩の偽弟子をどのように成敗していくのか?ある意味、痛快な事なのかも知れません。

    1. SHG より:

      いつも投稿を楽しみにしているカナリアさんからのコメント、大変、恐縮です。

      なるほど。
      おっしゃるように 「先生はきっと、予期されてい」て、ほんとうの弟子たちが 「不知恩の偽弟子をどのように成敗していくのか」 楽しみに見守っておられるのかもしれませんね。
      私などは、創価学会本部・公明党の腐敗の深刻さに暗澹たる思いにとらわれがちですが、本来は 「痛快な事」ととらえるべきなんでしょうね。
      池田先生も: 
      ―― 本当は、途中が全部、「映画」であり、「絵画」であり、「詩」であり、「音楽」なのである。
      人生も、最後の勝利を目指して、「今」を、どう生きるか。 その「今」の闘争に醍醐味がある。
      波乱万丈の中を戦うから、おもしろいのである。
      広宣流布は「偉大なる劇場」である。 ―― 
      (第29回本部幹部会、第23回九州総会 1998年12月8日)
      と言われていますからね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA