私論「折伏について」(10)

投稿者:鬼滅の言

ただ、ここで考えなくてはならないのは、虚空会だけでなく、二処三会という法華経全体の流れが、何を表そうとしているかです。
(中略)
前霊鷲山会→虚空会→後霊鷲山会という流れは、いわば「現実→悟りの世界→現実」という流れです。
より正確に言えば、「悟り以前の現実→悟りの世界→悟り以後の現実」という流れになっている。

「法華経の智慧」第一巻より

<二処三会>

池田先生のご指導です。
今回は折伏成果について、私の所感を述べさせていただきます。

私はこの二処三会の解釈を、折伏成果に対する考え方として捉えています。

悟り以前の現実=折伏の成果目標

悟りの世界=信仰とは数ではない!これを悟りの世界とします。

悟り以後の現実=多くの人々を救わなければならない!とするならば数が必要である。

つまり、成果主義での数ではない!
民衆救済としての数が必要である!
私はそう考えています。

<個人折伏1世帯について>

人事面接では必ず、個人折伏を聞かれました。
私の個人折伏1世帯についての考えです。

個人折伏1とは、その人が人生に於いて、1度は友の幸福を祈り行動した、その証しであり、さらには、人生に於いて1度は仏と等しい”慈悲”の生命が涌現した証しであると捉えています。

折伏をしない限り、友の幸せを祈り行動しない限り”慈悲”の生命は涌現しないからです。

白米は白米にはあらず・すなはち命なり

白米一俵御書 御書p.1,597

同じく
折伏1は数にあらず、すなわち慈悲の生命なのです。

次回は摂受・折伏の観点から折伏について考えたいと思います。

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