身延の草庵で拝していた曼荼羅本尊は?
日蓮大聖人が身延で過ごされた九ヶ年、草庵ではどのような曼荼羅本尊を拝していたのかは気になるところです。特定の曼荼羅だけを安置して、それだけを拝んでいたということはないでしょうが、主にこの曼荼羅本尊を安置したのではないかと推測することは可能でしょう。
現時点での私の考えですが、身延の草庵では主に万年救護本尊と臨滅度時本尊を拝していた可能性が高いと推測しています。
もちろん、身延草庵安置の曼荼羅本尊は、まずは断定することはできない難問中の難問です。それでも、皆さんが考えるきっかけになればと思いますので、以下、箇条書きで記します。
➀文永11年末からは万年救護本尊か
・授与書きの有る曼荼羅は除かれる。
・注目すべきは、授与書きのない文永11年12月の通称・万年救護本尊。
「文永十一年太才甲戌十二月 日」
「甲斐国波木井郷於 山中図之」
「106.0×56.7㎝」3枚継ぎ
・讃文が格別。
「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」
・「釈尊より滅後末法の弘通を託された上行菩薩は日蓮である、との直接的な表現は避けながらも、拝する門下をして、『後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するという、その大本尊を顕した日蓮聖人こそ上行菩薩に他ならない』と信解せしめる」讃文である。
・讃文では、曼荼羅は即「大本尊」であると明確にしている。
・これらは他の曼荼羅讃文には見られない。
・「自身の境地を含ませ、かつ大本尊」とした曼荼羅=本尊であれば、それは拝する弟子檀越を通して世に向かって宣言をしたものと理解できる。
・「自らの内観世界を明かした宣言ともいうべき讃文」を記した曼荼羅を、明らかにせず秘してしまう、隠す、しまっておく等は考えづらい。
・日蓮大聖人は文永の役(文永11年10月)という未曽有の国難を境に、それまでの台密への一定の配慮から脱却して「台密批判」を展開しており(曾谷入道殿御書、同年11月20日)、「日本国における仏教上の真の救済者は日蓮一人」と自覚したであろう後の図顕であり、自らの内観世界を明かした曼荼羅こそ日蓮の居所に奉掲するにふさわしいものである。
・上記の理由から、文永11年末より暫くは、万年救護本尊が身延の草庵に奉掲されていたのではないでしょうか。
②弘安3年(1280)3月からは通称・臨滅度時本尊か
・弘安3年(1280)3月に図顕され、授与書きはない。
「弘安三年太才庚辰三月 □」
「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」
「161.5×102.7㎝」10枚継ぎ
・立正安国会「御本尊集」により確認
文永、建治年間には授与書きのある曼荼羅は少ない
弘安元年から次第に授与書きが多くなる。
弘安2年以降は同年11月の曼荼羅68-2、弘安3年3月の曼荼羅81・臨滅度時本尊、弘安3年の系年と思われる曼荼羅90(守護曼荼羅か)、弘安5年1月の曼荼羅117、同年6月の曼荼羅122、123の計6幅を除き、他の72幅の曼荼羅は全てに授与書きが記されている。
・これは妙法弘通・法華勧奨の進展により日蓮法華信奉者が増加、弟子檀越からの曼荼羅授与の申し出が多くなり大聖人はそれに応えたことを示しており、弘安元年以降、大聖人は授与される者の名を意識して書き入れ、それが定形化していったことを意味するのではないか。
・特に弘安2年冬以降は、「守護曼荼羅」と区分される曼荼羅90「今此三界御本尊」(系年・弘安3年か)と入滅の年・弘安5年を除いて、全ての曼荼羅に授与書きを記している。
・その中で明らかに守護曼荼羅ではない、大型の「臨滅度時本尊」(81)に授与書きがないということの『意味』は何だろうか。
・日蓮大聖人は門下に授与するというよりも、常とは異なる意をもってこの曼荼羅を書き顕したのではないか。
・大聖人の曼荼羅本尊は、文永~建治~弘安に至る過程で相貌座配が整足され、配列の諸尊も定形化しており、弘安3年3月に至って、文永11年12月という「以前の相貌・配列形態」となった万年救護本尊に替えて、新たな曼荼羅(臨滅度時本尊・81)を書き顕し奉掲したのではないだろうか。
・臨滅度時本尊に授与書きのない「意味」、常とは異なる意というのはここにあると考えます。
・弘安3年(1280)3月になると、万年救護本尊に「大本尊」「上行菩薩」と認めて(文永11年[1274]12月)、本尊としての曼荼羅の意味と、日蓮の上行自覚を読み解くように示してから5年以上経過している。日蓮の意とするところは、「身延の草庵の弟子達、そこを訪れた門下を中心に伝えるべき人に十分な時間をかけて周知した」と考え至り、草庵奉掲の曼荼羅本尊を替えたのではないか。
・文永の役の後、しばらくは次なる蒙古襲来は必定との緊張感に包まれていたものの、5年という時の経過によりやや肩の力を抜いたところで、対蒙古緊迫の中から生まれた万年救護本尊奉掲の意味合いも薄くなり、臨滅度時本尊に替えられたのではないだろうか。
以上は現時点での考えの概略です。
あの資料、この史料と、更にあたって考えてみたいと思います。
林 信男