最澄と密教と日蓮
最澄は延暦23年(804)、38歳の時に入唐して不空金剛の弟子・順暁より越州にて金剛界五部の灌頂(かんじょう)、胎蔵界三部三昧耶(さんまや)の灌頂を受けるも、その内容には不完全なものがあったようです。
空海が唐より帰国して大同4年(809)7月中旬に京都・高雄山寺に入山以降、最澄は書を送り、また弟子を行かせて経論、儀軌の貸し出しの要請を重ね、最澄から空海への書状は24通、空海から最澄への書状は6通が現存しているといわれます。
弘仁3年(812)最澄46歳の時、11月15日に空海が灌頂壇を高雄山寺に開筳(かいえん)するや、最澄は和気真綱、和気仲世兄弟と共に高雄山寺に赴き、三濃種人を加えた四名で空海に弟子の礼を取り、金剛界の結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受法。続いて12月14日には、最澄は弟子の円澄、光定、比叡山寺の僧徒、更に泰範と南都諸大寺の学匠・沙弥・近事・童子など190名余と共に、空海より胎蔵の結縁灌頂を受法しています。
ところが金剛界・胎蔵の灌頂は一般的な結縁灌頂であり、最澄の望んでいた伝法灌頂ではなかったようです。翌弘仁4年(813)には、最澄は高雄山寺の空海のもとに円澄・泰範・賢栄を派遣し、2月に泰範・円澄・光定ら数名は空海より「法華儀軌一尊法」の伝授を受け、3月には泰範・円澄・光定等19名が金剛界の結縁灌頂を空海から受法しています。
その後、円澄と光定は比叡山寺に戻るも泰範は空海のもとに留まり、6月19日に最澄は泰範に「棄てられし老同法最澄」と綴った書を送り、「摩訶止観輔行伝弘決」十巻の返還を求めています。思うような密教の受法がかなわず、最愛の弟子にも事実上捨てられたかのような思いとなりながらも、最澄は9月1日に「依憑天台集」を著します。
その後も11月23日に最澄は空海に書を送り「文殊讃法身礼」「方円図」「注義」「釈理趣経一巻」等の借覧を願い出ますが、この年12月頃(または11月か)、空海は「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」を以て密教受法の厳格なることを説いて、経典の貸し出しを拒絶。これ以降、両者は疎遠となり、互いが独自の道を歩み始めることになります。
ここにおいて最澄の約10年間に亘った、天台密教完成への思いは断ち切られることとなります。
弘仁4年(813) 9月1日、47歳の最澄は「依憑天台集」を著していましたが、3年後の弘仁7年(816)50歳の時には「依憑天台集」に序文を加え、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し」(新しく来た真言家は面授の相承を重んじて、筆授の相承を滅ぼしている)と、面授を重んじる真言授受法を批判するようになります。
このような過程より推測すれば、空海からの密教伝授を求めていたものが、かなわない結果となった心情的なものもあり、「依憑天台集」に序文が加えられた可能性もあるのではないでしょうか。空海より胎蔵界・金剛界の結縁灌頂を受法したわずか4年前後に、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し」と書いているのです。空海から「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」が届いた時点で、最澄にとって密教受法は中断のまま終わったのであり、それは次なる展開へと最澄の足を踏み出させることになります。
空海と最澄の関係を概観すると、一見、密教こそが最澄の求めてやまないものだったように思えるかもしれませんが、最澄の志向は法華経、戒律、禅、浄土、密教等を包摂した総合仏教にあるように思え、比叡山寺もまた「総合仏教大学」を目指していたのではないでしょうか。
日蓮大聖人はそれらを冷静に理解しており、最澄の長年にわたる密教受法への取り組みも認識していましたが、「撰時抄」で「天台宗をわたし給ふついでに、真言宗をならべわたす」と、最澄は天台宗を伝来したついでに真言宗を伝えたとしています。
「報恩抄」では、「伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして」、「大日経をば法華天台宗の傍依経となして」はいたが、「真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか」という一面もあった。
だが、「法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然也」「釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には法華経すぐれたりという事は分明なり」と最澄は法華勝・大日劣であると明確化していた、というのが大聖人の理解でした。
また「曾谷入道殿許御書」では、
像法の末八百年に相当つて伝教大師和国に託生して華厳宗等の六宗の邪義を糾明するのみに非ずしかのみならず、南岳天台も未だ弘めたまわざる円頓戒壇を叡山に建立す、日本一州の学者一人も残らず大師の門弟と為る、但天台と真言との勝劣に於ては誑惑と知つて而も分明ならず、所詮末法に贈りたもうか、此等は傍論為るの故に且らく之を置く、吾が師伝教大師三国に未だ弘まらざるの円頓の大戒壇を叡山に建立したもう此れ偏に上薬を持ち用いて衆生の重病を治せんと為る是なり。
と「円頓戒壇を叡山に建立」するに至った法華経継承の正統の系譜としての最澄だったのです。
以上、見てきましたように、様々な面を持つ最澄の一生からは、
「師匠には多様な側面がある。それは一人の人間としての成長の歩みでもある。故に同時代の認識理解と評価は容易なものではない。ただ一つ、師匠と共に歩むところに師の真実に迫れるものがあるのではないか」
ということが理解できるのではないでしょうか。
林 信男