文永5年から文永9年への道~生から死、死から生へ

・文永5年(1268) 1月、高麗使潘阜(はんふ)が蒙古の国書を携えて大宰府に到着。

・閏1月18日、蒙古国書は鎌倉に到着。

「安国論御勘由来」(文永5年4月5日)

而るに勘文を捧げて已後九箇年を経て、今年後(のちの)正月大蒙古国の国書を見る。日蓮が勘文に相叶ふこと宛(あたか)も符契(ふけい)の如し。

「安国論奥書」(文永6年12月8日)

文応元年太歳庚申より文永五年太歳戊辰後正月十八日に至るまで九箇年を経て、西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之を渡す。

・2月7日、幕府 蒙古・高麗の国書を奏上。

・2月19日、朝廷 蒙古に返書を送らぬ旨を定める。

幕府 高麗使者を返す

・2月25日、朝廷は蒙古調伏祈願のため22社へ奉弊使を遣わす。

・2月27日、幕府は西国の守護・御家人に蒙古襲来の防備を下知。

・3月23日、東寺は異国降伏の祈祷をなす。

・4月13日、亀山天皇 蒙古調伏祈願のため伊勢神宮へ宸筆の宣命を奉納。

・4月、幕府は諸社寺に蒙古調伏の祈祷を命じる。

緊迫する日本を取り巻く情勢、騒然たる世情。

同年10月、日蓮大聖人は北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観らに書状(十一通御書)を送り、法の邪正を決すること、真の異国調伏は日蓮でなければかなわないことを訴えます。

その内の一つ、「弟子檀那中への御状」は烈々たる気迫に満ちたものです。

定めて日蓮が弟子檀那、流罪死罪一定ならん。少しも之を驚くこと莫れ、方方への強言申すに及ばず、是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候。各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ、権威を恐るること莫れ。今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え。

3年後の文永8年9月、鎌倉の草庵を襲われて大聖人は捕らえられ、竜口へ。日朗らは土牢へ。「流罪も死罪も一定である」が現実に。

ところが、「流罪死罪にも驚くことなく、生と死の迷いを切って成仏を期していくのです」と呼びかけられた人々は、「かまくら(鎌倉)にも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(新尼御前御返事)と雪崩を打って退転し、事実上、鎌倉の日蓮一門は壊滅状態です。

ある意味、見事なまでの手のひら返し。

「恐れと執着」人間の本質でもあるのでしょう。

10月9日、日蓮大聖人は相州本間依智郷にて、「楊子(ようじ)御本尊」と呼ばれる曼荼羅を顕します。曼荼羅というべきか、紙幅の題目というべきか。

ここから後の曼荼羅図顕が始まるのですから、竜口の虎口を脱した大聖人が自ら創りあげた光明ともいえるでしょうか。

実際に拝したことがありますが、縦53.6cm、横33.0cmの1紙は実に小ぶりです。しかし、拝するほどに何か多くを語りかけてくるようでもあります。約一か月前に竜口の虎口を脱して、佐渡配流に向かう前日の心情「生と死、希望と絶望、挑戦と諦め」等が感じられるような。文字通り、墨に大聖人の魂が込められ700年以上の時を超えた、人間日蓮がそこにいるような思いとなる曼荼羅です。

そして冬の佐渡の国へ。

塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上はいたまあはず、四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし。

種種御振舞御書

来る日も降っては積もる雪。

そこは「佐渡の国につかはされしかば、彼の国へ趣く者は死は多く、生は希(まれ)なり」(法蓮抄)の世界。

実質的にただ一人となった日蓮大聖人。

ですが、そこからです、次なる新しい物語が始まるのは。

「開目抄」「生死一大事血脈抄」・・・当たり前のように拝する御書は、実は死地からの新たなる出発の書でもある。『すべてを失っても志によって立つ』ここに日蓮仏法の心を感じてなりません。

                      林 信男