一体の釈迦如来坐像をめぐって

新潟県立歴史博物館で行われている企画展「日蓮聖人と法華文化」を見学してきました。

やはり、真蹟曼荼羅本尊は生身の日蓮大聖人がそこにいるかのような迫力があります。他にも真蹟御書、日興上人の曼荼羅本尊をじっくりと拝観したのですが、ここでは一体の仏像、「釈迦如来坐像」(山梨県身延町・本国寺蔵)に注目したいと思います。

坐像は本国寺本堂安置の一尊四士(中央に釈尊像、左右に上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の像を配置)の中尊(釈尊像)で、坐像の作風から鎌倉時代のものとされています。本国寺は、下山兵庫五郎光基の館の傍らに建てられた堂宇が始まりとされていますが、当初は阿弥陀如来を本尊としたようです。光基は、後に日蓮大聖人より「下山御消息」を授与されて、法華経信仰に帰依したとされています。

そこで気になるのが、「富士一跡門徒存知の事」の以下の記述です。

一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍つて甲斐国下山郷の地頭左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す[帰依僧なり]、而るに去る永仁年中新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず、聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、爰に日澄本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る、此の仁盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり、

意訳

一、寂仙房日澄は、日興が立てた義(釈迦仏像をどうしても造立するならば、四菩薩を加えた一尊四士として久遠実成の釈尊を表現すべきこと)を盗み取ってあたかも自分が立てた義であるかのようにした最初の人間である。

かの日澄は民部阿闍梨の弟子である。そういうわけで甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は大聖人の御弟子である。大聖人後入滅の後、民部阿闍梨日向を師とした。

しかるに去る永仁年中(1293~1299)に新しい堂宇を建立し、釈迦仏の像一体を安置した時、日興のところにやってきて、日興の立てた義を問いただした。日興の義を聞き終わってそれを自分の義としていたところ、正安 2 年(1300)に民部阿闍梨日向が、かの新しい堂宇ならびに釈迦仏の像一体を開眼供養したのである。このため日澄は自分の師である民部阿闍梨日向と永久に義絶して、日興に帰伏して弟子となったのである。この日澄は日興の義を盗み取って自分の義としたのであるが、後に反省して日興に帰伏した者である(後に日興上人のもとで重須談所の初代学頭となる)。

さて、本国寺本堂安置の一尊四士の中尊・釈迦如来坐像は、「富士一跡門徒存知の事」に記された、左衛門四郎光長が新堂に安置したものなのでしょうか?

山上弘道氏は「もしこれが鎌倉後期の作であることが確定すれば、地理的にいってもその可能性は否定できないであろう」(論考「富士一跡門徒存知事について」興風 第19号p42)とされています。

私も、釈迦如来造像の時代的にも、地理的観点からも、「富士一跡門徒存知の事」に記述された仏像であると考えます。

「本尊問答抄」に「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」とあるのに、一体仏造立を可として開眼供養した日向の本尊観。一体仏造立に不審を抱いて師匠日向のもとを離れ、日興上人のもとに帰伏した日澄。その日澄がほどなくして重須談所の学頭となり、後進の育成に力を注ぐようになり、富士門流の基礎が築かれる。師匠の日興上人からは4幅の曼荼羅本尊を授与されており、それは日澄主導の妙法弘通が進んでいたことを示すもの。

もし、いま目の前にある仏像の造立がなかったら・・・・

今は博物館に展示されている一体の釈迦如来坐像を見つめながら、この仏像にまつわる登場人物とその物語に新たなる感慨が込み上げてくるのです。

                        林信男

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