出世の本懐に関する一考
日蓮大聖人の出世の本懐といえば、まず思い起こされるのが、平成19年(2007)8月に出版された金原明彦氏の『日蓮と本尊伝承』(水声社)です。
そこには次のように記されています。
『日蓮と本尊伝承』p215より
最後に、弘安二年十月一日の「聖人御難事」に「余は二十七なり」として示された「出世の本懐」成就について、私見を付記しておきたい。
去ぬる建長五年<太歳癸丑>四月二十八日に、安房の国長狭郡の内東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年<太歳己卯>なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。その中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。その間の大難は各々かつしろしめせり。
本状では、「余は二十七年なり」と記された以外、本懐の内容に関する言及はない。ただし、本状が熱原法難の最中、弟子一門に向けて発せられたものであることを考えれば、本状で宣言された「出世の本懐」がこの法難と無関係のはずはない。
これまでも各所で論じられている通り、熱原法難はそれまでの法難とは質的に異なっている。他の法難が日蓮大聖人御自身の闘争を中心として、またそれに連座する弟子一門という関係性の上に興起したものであったのに対し、この法難はその起因に大聖人の直接的関与はなく、日興上人を中心とする弟子檀越たちの自立した活動によって引き起こされたものであった。しかも、受難者である熱原の農民信徒は、そのほとんどが大聖人と面識を得た者はなかったであろう。
このような一文不通の在家農民たちが信仰を得て一年足らず、その間にはすでに罪のない四郎男、弥四郎男へ身命に及ぶ危害が加えられ、背後に幕府権力を持つ竜泉寺及び下方政所によって終始退転を迫られる中、不退の信仰を貫き、ついには一斉検挙にまで及ばしめた。直接教導の手が及ばぬ、しかも最下層の人々が、最高権力の横暴に対しても屈することなく自立・不退の法華信仰を貫いているその事実は、日蓮大聖人にとって、本懐と言わしむるに充分足る事実ではなかったろうか。本状の文脈から、「大難」と「本懐」は切り離せない。大聖人ご自身が蒙った大難の数々、それは天台・伝教に勝る熾烈なものであった。が、しかし、大聖人にとって、自身の幾多の受難にもまして重く、深く受け止められたのは、弟子一門に向けられた身命に及ぶ迫害・弾圧ではなかったか。
諸仏出世の目的(本懐)は、端的に言えば、一切衆生の成仏得道である。宗祖が釈尊の本懐を「法華経」と位置づけたのも、「法華経」、なかんずく「法華経寿量品」の説法によって一切衆生の成仏が事実上開かれたからであり、さらには宗祖自身が「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候いけるぞ」と明言しているように、本懐成就はあくまで衆生が的となっている。
日蓮大聖人が、当時の社会構造の上から国家諌暁をもって立正安国を目指されたことは確かであるが、より根本的には、不退修行を成仏とする末法にあっては、そのもととなる信仰の確立こそ本懐成就と呼ぶにふさわしく、まして弘安二年のこの時に本懐成就を宣言されたことは、この本懐が事壇建立や立正安国と直接結び付けられるものではない、と考えるべきであろう。大聖人の一生は、末法の法体を顕示することを前提としながらも、常に受持不退・憶持不忘を説き続けられた一生であった。大聖人が期したとおり、熱原法華衆は、中心者三名の斬首という最悪の結末にも題目を唱え続け、法華信仰を貫き通したのである。
釈尊の脱益化導の締めくくりが「法華経」であるのに対し、発迹顕本・法体建立を下種益化導の出発として、未来流通を正意とする日蓮大聖人にとって、熱原法難において示された農民信徒の自立した不退の信仰と、それを導いた日興上人の、師を体現したるが如き弘通の姿は、正しく未来流通への一実証であり、御自身幾多の受難克服をもって示された大聖人の御化導における一つの成就であったと言えるのではないか。
大石寺がこの出世の本懐を板本尊に結び付けて理解せしめてきたため、そのように信じてきた人々にとっては、板本尊造立のような何か具体的行為の表出、大聖人による積極的事象を、本状に述べられた「本懐」に期待する心情はわからぬでもないが、「二十七年」は単に弘安二年のみを切り取られてかく述べられたのではなく、二十七年に及ぶ日蓮大聖人の弛まざる闘争と、その延長線上に興起した熱原法難における門下の自立した信仰を一つの結実として、「余は二十七なり」と発せられた、とみるべきではなかろうか。私はそう確信する。
*当然、御本尊の図顕、三大秘法の顕示はその中に含まれるものである。
以下略
『御本尊の図顕・三大秘法の顕示と、熱原法難で示された農民信徒の自立・不退転の法華信仰の確立、即ち民衆仏法の確立』こそが、日蓮大聖人の出世の本懐であるということについて至極頷くのですが、そもそもが、「聖人御難事」の「余は二十七年なり」を引用していつから日蓮大聖人の出世の本懐は戒壇板本尊である、と主張されるようになったのかが気になるところです。
以下、少々確認してみましょう。
現在、確認できる文献としては、大石寺・26世日寛師の「観心本尊抄文段」に「二十七年」と有りますが、立宗の建長5年(1253)より戒壇板本尊の日付「弘安二年(1279)十月十二日」を念頭に「二十七年」と記したのではないかと考えられます。
「観心本尊抄文段」
またまた当に知るべし、宗祖の弘法もまた三十年なり。三十二歳より六十一歳に至る故なり。而してまた宗旨建立已後第二十七年に当って己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕したまえり。学者宜しくこれを思い合すべし。
明治期以降の大石寺・56世日応の代になると、「聖人御難事」を「戒壇板本尊が日蓮大聖人の出世の本懐」説の文証として本格的に使用するようになります。
・明治25年(1892)、要法寺・驥尾日守が「末法観心論」を著して大石寺の教義を批判。
・56世日応が「正法実義論」を著し反論。
・明治27年(1894)には「弁惑観心抄」を著して 「聖人御難事」 を引用。
「弁惑観心抄」
弘安二年十月本門戒壇の大本尊を顕すを以て出世の本懐を成就せりと云ふへし、故に宗祖の云く『去る建長五年四月二十八日乃至此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計なし・先先に申がごとし、余は二十七年なり』此文意を深く考ふへきなり余は建長五年より二十七年弘安二年十月本門戒壇の本尊を顕はし出世の本懐を究盡し玉ふへきとの聖意にほかならさるなり
大正5年(1916)には「日蓮本仏論」を東京各所で講演 (富士年表397)
日応著「日蓮本仏論」 (大日蓮1巻 2・3号・大正5年)
本文
而して又宗祖出世の御本懐は、末法万年の一切衆生に下種結縁せしめ、無間地獄の苦を救い給うにあれば、弘安二年十月に至り本門戒壇の大蔓茶羅を顕し、全世界の一切衆生に総与し給えり。
故に聖人御難抄に日く、去る建長五年乃至此法門申はじめて今に二十七年、弘安二年(太歳己卯)なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし、余は二十七年なり。共間の大難は各々かつしろしめせり。法華経云而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後云云。
文に、余は二十七年也とは、上の仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給うと、一連互顕の御文にして、宗祖は宗旨建立の日より二十七年にして出世の本懐を顕し給いたることを示し給いたる明文にして、其の間の大難は各々且しろしめせりとは、御本懐を顕すまでの大難は、仏や天台伝教が本懐を顕し給う其の中の大難にも勝れることを示し給いしものなり。
故に次下に、法華経に云く、而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後云云と示し給い、而して此本門戒壇の大本尊は、弘安五年九月に本宗第二祖日興上人へ御付嘱ましまし、六首数十年来我総本山大石寺に奉安せり。
大石寺・17世日精(1600~1683)の著作「日蓮聖人年譜」では、熱原法難の時に越後公日弁と下野公日秀に曼荼羅下付とありますが、戒壇板本尊の記述はありません。
日蓮聖人年譜 (富要 5巻P135 )
頼綱数百人の兵士熱原田中にさし遺はし寺二箇寺を破却し檀那の頭領二十四人を召しとり鎌倉の土の篭にぞ入れたりける。此の時越後公日弁と下野公日秀と二人は杖木瓦石の大難を忍辱の膚にうけたまふ、同十一月朔日亦日興滝泉寺の申状を捧けて訴訟したまふ(其の状とも別帋に在り)、大聖人は両人の衆褒美として大曼荼羅を下され称歎の言を加へたまふ、亦篭中の人々には御書を下さる(聖人御難抄と号するは是也)其使も日興なり、篭舎の人々は熱原郷住人神四郎、田中四郎、広野弥太郎なり残りは或は所を追ひ払ひ或は所帯を没収し財宝を奪ひ取りたまふ。
日精の著作「家中抄・日興」での熱原法難記述は、戒壇板本尊どころか日興上人書写本尊の記述になっています。
「家中抄・日興」 (富要 5巻P152 )
亦大聖人よりは籠舎の人々に御書を下さる聖人御難抄と号するなり今重須に在り、其使も日興なり、籠舎の人々は熱原の郷の住人神四郎、田中の四郎、広野の弥太郎なり、残りは所を追ひ払ひ或は所帯を没収し財宝を奪ひ取り給ふ、同三年に法華宗の檀那三人をば頚を切つてぞ捨たりける、されば彼の三人の追善に大曼荼羅を書写し給ふ、其の端書に云く、駿河国富士下方熱原郷住人神四郎法華宗と号し平の左衛門尉が為に頚を切らるる三人の内なり、平の左衛門入道、法華衆の頚を切るの後十四年を経て謀叛を企つる間、誅せられ畢ぬ、其の子孫跡形無く滅亡し畢ぬ、徳治三戊申年卯月八日日興在判已上此本尊今重須に在るなり、
天正元年(1573・大聖人滅後292年)に大石寺・14世となった日主の書状に「本門戒壇御本尊」という呼称表現が登場します。
富士四ヶ寺之中に三ヶ寺者(は)、遺状を以て相承成され候。是は惣附属分也。大石寺者御本尊を以て遺状成され候、是則別附属唯授の一人の意也。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊は法躰御附属、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱の全体色も替らず其の儘なり
(歴代法主全書1巻P459)
大石寺の別附属唯授の一人の意・法躰御附属として「本門戒壇御本尊」が登場しました。おそらく、日主は前代からの伝承を記述したものでしょう。
「出世の本懐・三大秘法=戒壇板本尊」の確認
天和2年(1682・大聖人滅後401年)11月13日より「日目350年忌の説法」
22世・日俊
大石寺にて
日目上人三百五十年忌報謝の為に之を談ずるもの也、大石寺~
十四日~
此の三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや~此の如く蓮祖御出世の本体三大秘法の御座す寺なる故に~
(歴代法主全書3巻P103)
大石寺の古文献を確認したところ、22世日俊が「当寺戒壇の板本尊」「蓮祖御出世の本体三大秘法」と説法しています。現在の「日蓮大聖人の出世の本懐は戒壇板本尊である」説の始まり、と考えられます。
これまで確認してきましたように、「戒壇板本尊が日蓮大聖人の出世の本懐であり、聖人御難事がその文証である」という組み立ては近代以降、特に強調されてきたわけですが、金原氏の本の出版により一旦終了となり、「三大秘法と弟子檀越の不惜身命の信仰の確立=民衆仏法の確立」という日蓮大聖人の出世の本懐が鮮明になったといえるでしょう。
御書を拝すれば、日蓮大聖人の出世の本懐が「特定のあるもの」「ただ一つのもの」に限られるということはないのですが、それはまた別の機会に確認したいと思います。
※「特定のあるものだけが正しい」「特定のあるものでなければならない」という思考の習性は様々な弊害をもたらします。宗教的情熱・確信をそのまま特定の政党支援に向けて、「この政党でなければならない」「この政党に対する批判は許さない」「批判する人はおかしな人だ」という思い込みが、その最たるものといえるでしょう。『常識からかけ離れた思考の習性』を見直すべき時が来ているように思います。
林 信男