佐渡期の外部批判(7)・私論
投稿者:鬼滅の言
或る人云く唯教門計りなりと
寺泊御書 御書p.953
寺泊御書に記された4番目の批判です。
教門(教相)は観心に対する語で、日蓮大聖人は、ただ教門ばかりで観心が説かれていない。それは形だけの信心であり、パフォーマンスである。「観心」つまり内面的な信仰に欠けているのである。そのような批判ではないかと私は思っています。
勧持品に云く(中略)「及び刀杖を加うる者」等云云日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる
寺泊御書 御書p.953
前回も引用しました寺泊御書の一節ですが、法華経の身読・色読を強調される大聖人に対し、法華経を文字通り実践することが信仰なのか?刀や杖の難うけることが信仰なのか?そのような批判の意味合いもあるのかも知れません。
観心が説かれていないとの批判に対し、大聖人はどう答えられたのか。
観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり
観心本尊抄 御書p.240
大聖人は観心本尊抄を表され、大聖人の仏法における観心とは「我が己心を観じて十法界を見る」それが観心であり、さらには「但仏界計り現じ難し」(御書p.241)現じ難い仏界を一切衆生つまり「末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(御書p.254)そのためにご図顕されたのが「一閻浮提第一の本尊」(御書p.254)つまり観心の本尊であると説かれています。
これが答えであると思っています。
また、佐渡期、大聖人はご自身の過去世について縷々仰せられています。
過去世を省みることにより内面的な信仰のあり方を示されたのかもしれません。(大聖人の過去世につきましては、あらためて考えたいと思います)
佐渡へ渡る直前、寺泊で表された寺泊御書。大聖人に対する外部批判が記されていますが、大聖人は佐渡期の御書を通し、批判に対する答えを丁寧に説かれています。
-以上-
次回は佐渡期に於ける内部批判、さらには大聖人が直面されていた諸問題について考えたいと思います。