安房国清澄寺に関する一考 37

【 高木豊氏の指摘 】

高木豊氏は論考「安房国清澄寺宗派考」(日蓮攷P25)にて、金沢文庫に所蔵する寂澄手択本の奥書にある寂澄の署名は一貫して同一だが、「納経札」の「院主阿闍梨寂澄」とは一致せず、別人との断定はひかえるが同一人とすることもできない旨、指摘されています。

文永7年(1270)に「不動法」「胎蔵界自受法楽記」「自性法身能加持説」「金剛界自受法楽説」「二界他受用法身説法」を、建治元年(12750)に「四種曼荼羅義」、弘安5年(1282)に「三部細行口伝幷加行次第表白」「最極秘密羅誡記」を学んだ寂澄と、弘安3年(1280)の「納経札」の院主阿闍梨寂澄が別人であれば、同時代に二人の寂澄がいたことになります。

実際、高木氏は「実勝授与記」の「寂澄 重照道房 七十歳 同四年改元 弘安元 九月廿七日於高野授之」を紹介して(日蓮攷P18)、その年齢の異なりから「二人の寂澄」がいたことを指摘されています。

文永7年(1270)に29歳の寂澄と弘安元年(1278)に70歳の寂澄は明らかに別人ですから、手択本奥書の寂澄と「納経札」の寂澄も別人ということであれば、齢70を越えた照道房寂澄が弘安3年(1280)当時の清澄寺院主であったということになるのでしょうか。

ですが、文永7年(1270)の「不動法」には「寂澄 春秋□二十九」=29歳とあり、この寂澄は弘安3年(1280)には39歳となっているので、年齢的には阿闍梨号を冠した清澄寺院主となっていたとしてもおかしくはないでしょう。

私としては、例えば筆跡鑑定などにより、誰人にも理解可能なように手択本奥書の寂澄と「納経札・寂澄」の「別人説」を論証して頂きたいと思うのですが、可能性としては高木氏の指摘通りということも有り得ます。ここでは念の為、手択本奥書の寂澄の署名と「納経札」の寂澄とが別人であるとして、「納経札」を除外して考えてみましょう。

・建長5年(1253)9月14日に東寺真言・小野流の書「胎蔵界沙汰 付小野延命院次第」を、9月20日に覚鑁の書「金剛界鑁口伝」を写しているところから、法鑁(日吽)は真言・東密の法脈の人であると理解される。

・(「納経札」とは別の、金沢文庫に手択本が多く残る)寂澄が文永7年(1270)から正安4年(1302)にかけて書写、相伝したものは覚鑁と頼瑜のものがあり、寂澄も真言・東密の法脈に連なる人物であると理解される。

・法鑁から「金剛界鑁口伝」「五輪九字明秘密釈」を伝領している寂澄は、同一の法脈であったと理解される。

・法鑁は「清澄山住人」(五輪九字明秘密釈)であり、建長5(1253)・6(1254)年頃、清澄寺と周辺で活動していた。即ち真言・東密の人が清澄寺で活動していたことが確認されます。

・寂澄の清澄在山の初見について、現存文献上では、「聞持秘事」奥書に「清澄山」と書写地を書き込んだ正安元年(1299)8月12日、58歳の時に清澄寺にいたことがはじめて確認されるということになります。

しかし、寂澄は建長年間に清澄寺と周辺で活動していた法鑁に連なり、正嘉年間(1257~1259)、10代後半には重書を伝受した可能性があり、また文永年間の青年期より活発に真言法門を学習していたことも踏まえれば、建長5年(1253)、12歳の頃には清澄寺に居住していたと考えられるのではないでしょうか。少年日蓮が12歳で清澄寺に登山したこと、大石寺・日目師が13歳で走湯山円蔵坊に入ったことが想起されます。

以上のように、高木氏の指摘を踏まえたとしても、日蓮大聖人と同時代の清澄寺における真言・東密の法脈の存在は確認されるところだと考えます。

尚、櫛田良洪氏は寂澄、法鑁らの事跡について、次のような解説をされています。

・永仁年間(1293~1299)、頼瑜の弟子・頼縁が鎌倉佐々目谷に下向しており、ここで寂澄は頼瑜教学を学んでいる。覚鑁の求聞持法についての修法上の秘決を伝えたもの等、多くの新義真言の書籍を付与されている。覚鑁の「吨枳尼法秘」「金剛界口伝」「金剛界鑁口伝」「胎蔵界鑁口伝」「菩提心論」等、各一冊を相伝している。

・法鑁は中性院流を受け、「梵字」口伝を相伝して東寺の止住僧・亮順に授けている。法鑁は亮順と共に関東に下向、亮順は建長5年頃に下総長居郷で活動している。称名寺開山審海は亮順の教えを受け、文永4年(1267)2月、清澄寺で「求聞持口決」を書写している。

(以上、概要。櫛田・続P231、232、868)

ただし典拠不明のものもあるようなので、今は参考とするに留めたいと思います。