安房国清澄寺に関する一考 38

9 関東護持奉行・弘賢

日蓮大聖人について「師匠道善御房に値ひ奉って、東寺家の真言を習学す」と記す「法華本門宗要抄」が作られる頃には、清澄寺はあたかも真言・東密と見られるような寺院となり(山川P86~)、窪田氏は宗要抄の作成年代を元徳2年(1330)頃とされ(窪田P328)、文和4年(1355)6月には東寺系の弘賢(31歳)が鶴岡八幡宮寺の第20代別当となっています。

至徳4年(1387)、弘賢は大僧正になり関東護持奉行に任命されて以降、走湯山、下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国の国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等、10数箇寺の別当職を兼務したことが「鶴岡八幡宮寺社務職次第」に記録されています。

これは「関東護持奉行として10数箇寺の別当職を兼務した」と理解できるもので、弘賢の清澄寺別当兼務開始は至徳4年(1387)以降、梵鐘に「当寺主 前大僧正法印大和尚 弘賢」と刻む明徳3年(1392)以前ということになるでしょう。

弘賢の鶴岡別当在任は長く、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代にわたる応永17年(1410)までの56年間です。疑問なのは、10数箇寺の別当職を兼務した弘賢が各山に居住したのだろうかということです。

関東護持奉行となった至徳4年(1387)、弘賢は63歳という高齢になっています。実際には各地の寺院の要職にある人物が実務を行い、弘賢は関東護持奉行の職責として名義上の、各地の寺院の別当になっていたのではないかと考えます。

弘賢が鶴岡別当になる以前、南北朝時代初期の社会の動向も概観しておきましょう。

建武2年(1335)12月、箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を破った足利尊氏(嘉元3年・1305~延文3年・正平13年・1358)率いる軍勢が翌建武3年(1336)1月11日に入京。同日、尊氏討伐を命じていた大覚寺統の後醍醐天皇(正応元年・1288~暦応2年・延元4年・1339)は比叡山に退いてしまいます。

足利軍は山麓の園城寺に集結しましたが、比叡山の僧兵と新田義貞(正安3年・1301~建武5年・延元3年・1338)、楠木正成(永仁2年・1294?~建武3年・延元元年・1336)の軍勢、北畠顕家(文保2年・1318~建武5年・延元3年・1338)軍等の攻撃により駆逐されてしまいます。

その後の戦況は足利軍に不利なものとなり、2月下旬、尊氏らは九州へと下っていきます。しかし尊氏の反転は早く、3月2日には多々良浜の戦いで後醍醐天皇方の菊池武敏を破り、九州の有力武将を味方につけ、4月3日には博多を出港。5月3日、持明院統の光厳上皇(正和2年・1313~貞冶3年・正平19年・1364)の院宣を受けて西国の武将を傘下に集め、5月25日、湊川の戦いで新田義貞・楠木正成軍を破り、知らせを聞いた後醍醐天皇は5月27日、再び比叡山へと退きます。

6月14日、尊氏は入京し、尊氏に奉じられた光厳上皇は東寺に入ります。8月15日、光厳上皇の院宣により、弟の豊仁親王が即位して光明天皇(元亨2年・1322~康暦2年・天授6年・1380)となります(北朝の成立)。

光明天皇には三種の神器がなく、抵抗を続けていた後醍醐天皇が所持する三種の神器を確保する必要に迫られた尊氏は、新田義貞軍に守られて比叡山にいた後醍醐天皇に和議を申し入れ、10月10日、後醍醐天皇は京都に戻ります。

花山院に幽閉された後醍醐天皇は11月2日、三種の神器を光明天皇に譲ります。11月7日、足利尊氏は政権の基本方針たる建武式目十七条を定め、新たなる武家政権の成立を宣言(室町幕府が実質的に成立)。12月21日、後醍醐天皇は花山院を脱出して山中に逃れ、豊仁親王に譲った三種の神器は偽物であり本物は自らの手にあるとして12月28日、吉野吉水院を行宮として独自の朝廷を樹立(南朝の成立)。以降、60年近く南北朝の内乱が続くことになります。

平安時代末期、比叡山が源氏と穏やかならぬ関係になったことは先に見ましたが、南北朝時代初期にも、大覚寺統の後醍醐天皇に助力した比叡山は足利尊氏に対したことになりましたが、尊氏は比叡山を処断することなく懐柔し、比叡山も権力の懐に入っていったようです。

山川智応氏は(至徳4年・1387以降となる)弘賢の清澄寺別当兼務と、日蓮滅後111年の明徳3年(1392)8月に造られた梵鐘に「寺主弘賢」とあることを以て、「かくて聖人滅後百十一年の明徳三年(1392)当時には、清澄寺が正しく此の弘賢法印を寺主別当として、真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していた事実は、頗る確実である」(山川論文P98)とされています。

続いて仮定としながらも、「『本門宗要抄』の偽作せられた聖人滅後七十九年前後における頃に、既に真言宗になって居た」(同)とし、「此の『八幡宮寺社務職次第』の記事によれば、清澄寺は、単なる宗門所属の寺ではなく、別当を幕府から命ずる官寺であることは明確のようだ」(同)としています。

私としては、弘賢の代に真言・東密の「法脈に属していた事実は、頗る確実である」とするのには疑問があるのですが、「別当を幕府から命ずる」ことがあったかどうかは明確ではないとしても「官寺」については同意で、弘賢の別当兼務からして、1350年代の文和・正平年間の頃には清澄寺は官寺になっていたと考えます。

では、それが何時からかといえば、鎌倉時代初期、鶴岡八幡宮寺をはじめ関東一円に東密が進出し、清澄寺に定着した頃、特に後に見るように日蓮大聖人の時代には官寺になっていたのではないかと考えています。