安房国清澄寺に関する一考 36
【 法鑁 】
法鑁は東密・小野流の書である「胎蔵界沙汰 付小野延命院次第」を書写しており、東密の相伝を受けていることが確認されます。
◇「胎蔵界沙汰付小野延命院次第」
建長五年(1253)癸丑九月十四日未時書了
於長佐郷打墨□ 筆師肥前公法鑁
(識語編2・P144 No1583)
法鑁は京都で「舎利略行法 付大師十八道次第」、「愛染王」を書写し、安房で上記「胎蔵界沙汰 付小野延命院次第」と覚鑁の書「金剛界鑁口伝」を書写しています。書写の地は記入しませんが、やはり覚鑁の書である「五輪九字明秘密釈」を書写しており、東密・新義真言教学を学んでいます。
また法鑁は、自らが書写した「金剛界鑁口伝」と「五輪九字明秘密釈」を寂澄に譲り渡し、即ち相伝していて、法鑁と寂澄が同一の系譜・法脈にあったと理解されます。譲り渡した=相伝した時期が気になるところですが、まず法鑁が「金剛界鑁口伝」を書写した建長5年(1253)当時の寂澄が何歳であったかを確認してみましょう。
寂澄が文永7年(1270)2月22日に書写した「不動法」奥書に「春秋□二十九」とあり、正安元年(1299)8月12日の「聞持秘事」には「春秋□五十八」とあります。これによれば、建長5年(1253)時点での寂澄は12歳であり、まさに少年です。当時の密教僧が法門上の重書、秘書を少年に相伝することがあったか否かについては確認できていませんが、青年日蓮が17歳で「授決円多羅義集唐決」を書写している先例からすれば、法鑁から寂澄への相伝は建長5年(1253)より4、5年後、正嘉年間(1257~1259)の頃であったでしょうか。
以下、奥書。
◇「舎利略行法付大師十八道次第」
建長四年(1252)八月廿五日酉時 印性上人御本
於法勝寺西門法雲寺書写了 筆師肥前公
□鑁
(識語編2・P1 No1067)
◇「愛染王」
建長四年(1252)十一月廿八日子時書了
於法勝寺西門法雲寺執筆
肥前公生年廿五才
(識語編1・P3 No11)
◇「金剛界鑁口伝」
建長五年(1253)癸丑九月廿日午時書了
於打墨□筆師肥前公
雖無極悪筆為仏法興隆法界衆生也
法鑁廿六才也
今寂澄
(識語編1・P229 No774)
◇「五輪九字明秘密釈」
建長六年(1254)甲寅九月三日未時了
清澄山住人肥前公日吽生年廿七才
為仏法興隆法界衆生成仏道也
(識語編1・P222 No747)
(表紙に本文とは別筆で「寂澄」と記されているところから、法鑁から寂澄に渡されていることがわかります。寺尾英智氏の論考「日蓮書写の覚鑁『五輪九字明秘密釈』について」の教示より。中尾堯氏「鎌倉仏教の思想と文化」所収P301 2002吉川弘文館 )
法鑁と寂澄の活動は、清澄寺における真言・東密の伸長を示すものといえるでしょう。一方では東寺の真言を三流相伝し、台密の蓮華院流、穴太流、三昧流を相伝して、台東両系の法脈に連なったとされる亮守(?~一説、正平13年・延文3年・1358)は清澄寺で求聞持法を三度修し(華頂要略・真言血脈相承次第)、1330年代から40年代の間に同寺において灌頂を授けています(窪田P326)。