神仏習合から本地垂迹、そして日蓮初期教団
552年(または538年)の仏教公伝以降に発生した神仏習合というのは実によくできた考えで、新と旧、即ち新しいものも従来のものも、そこに存在するものを共に生かして活かす共生の思想であったと読み解けるのではないでしょうか。やがて9世紀の半ばから10世紀にかけて仏菩薩の仮の姿としての日本の神という観念が現れ、「本地垂迹説」が体系化され諸国の神社へ導入されていき、11世紀から12世紀にかけて各地の神に本地仏が設定されるようになります。
一例として、熊野三山の熊野本宮は阿弥陀如来の西方浄土、新宮は薬師如来の東方瑠璃浄土、那智は観音菩薩の補陀落浄土とされ、熊野の地は「山中他界」であると同時に、仏・菩薩の浄土と観念されるようになっていき、平安期には朝廷、公家の「熊野詣で」が盛んになります。
『歴史というものは継承、発展、破壊、創造の物語でもあります』から、平安期に定着した本地垂迹説は鎌倉仏教にも引き継がれ、創造的に展開されます。
元亨4年(1324)に浄土真宗の存覚が著した「諸神本懐集」では「本地の仏菩薩は、悉く弥陀一仏の智慧」として、阿弥陀如来への帰依を説いています。
遡って弘安2年(1279)2月、日蓮57歳の時に著した「日眼女造立釈迦仏供養事」では、「一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」とされ、神々の本地は釈尊一仏、即ち久遠の仏に収斂、包摂されると説示するのです。
ここにおいて、日蓮法華の信仰では法華経、久遠の仏に還ることにより、浄土教においても阿弥陀如来一仏への信仰により、諸国、各地への神社参詣の必要はなくなり、それぞれの信仰に専念すればいいことになるわけです。
ましてや、日蓮法華の場合は、法華経・妙法への信仰なき世界(広宣流布以前)においては諸々の神々・諸天善神は天上に去ってしまうという神天上の法門を説きますので、『二重の意味において神社参詣の必要はない』わけです。
ところが、そのような教示をされた師匠・日蓮亡き直後から、圧倒的多数の弟子檀越が「諸の神社は現当を祈らんが為なり」(富士一跡門徒存知の事)と神社参詣へと足を向けるのですから、「師匠の心、法門を一番理解していなかったのは、側近の弟子たちであった」ということが史実として、後世への教訓として残ることとなってしまいました。
このような、念仏門ですら法門体系を構築して解明、戒めた神社参詣を、あろうことか日蓮法華の初期の弟子たちが師の心、教示を守れなかったという史実は、決して「鎌倉時代の話ではなく、現代まで続く物語」であるように思うのです。