佐渡期の外部批判(1)・私論

投稿者:鬼滅の言

或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤義を立て難に値うと、或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと、或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云、或る人云く唯教門計りなりと

寺泊御書 御書p.953

竜の口の法難から1ヶ月あまり、10月22日付、寺泊御書の御文です。

佐渡へ渡る港町、寺泊で表された御書で
日蓮大聖人に対する外部批判が記されています。

私なりに解釈してみます。

衆生が何を求めているのか、その機根を知らずに法華経第一の教義をたて弘教したが故に難にあったのである。

日蓮は深位の菩薩ではない。従って修行は勧持品で説かれる三類の強敵と闘う折伏行ではなく、安楽行品の摂受の修行をすべきである。そもそも修行が間違っているのである。

日蓮が説く法門は特別な法門ではない。法華経を読めば分かることであり、特別何か言うことはないのである。

教門(教相)は観心に対する語。ただ教門ばかりで観心が説かれていない。それは形だけの信心でありパフォーマンスである。

「観心」つまり内面的な信仰に欠けているのである。そのような批判ではないかと私は思っています。

佐渡期の御書は大聖人に対する外部批判や内部批判、さらにはご自身の懐いた疑問に一つ一つ丁寧に答えられています。

この批判に大聖人はどう答えられたのか、次回考えたいと思います。