十七世日精の相承問題の顛末 概説
興風談所発行の「興風」最新号に、『大石寺「精師・舜師矛盾の書付」について』と題する論文が掲載された。近年話題になった「精師・舜師矛盾の書付」について、その全貌を明かし、日精・日舜の相承において起きた目を覆うべきその実状を明らかにしたものだ。
今回は、この論文を元に、その顛末の概要をまとめてみた。
大石寺十七世日精は、「養母」とまで慕った敬台院との確執をきっかけに大石寺を追い出される。其の後幕府の御朱印改めがあり、大石寺は貫首が不在では朱印が取れず廃寺にされるため、急遽大旦那敬台院に泣きついて貫首の選任を依頼。敬台院は子飼いである法詔寺の日感(要法寺僧)に相談し、日感により日舜(要法寺僧)を推薦される。敬台院は日舜晋山を内約し、大石寺衆旦に了承を取り付け、日舜は要法寺にも大石寺晋山の許可を取り付ける。同時に先代日精に相承を了解させた上、表向きは貫首として江戸へ赴き朱印を受ける。その足で江戸常在寺に在った日精を訪ね「資師の契り」を結ぶ。(相承の内約)
その後、同年十月二十六日、約束に従って日精は大石寺に上り、翌二十七日、日舜に相承を授けるのだが、日精は初めから敬台院推挙の日舜に相承する気はなく、相承したと思わせて、実には偽の相承を渡していた。「他家の相承」である。この偽相承の後、日精はその事実を証文に記し、内々に塔中の久成坊に預け置いた。相承を受けたと信じた日舜は大石寺の法主になったが、日舜の晋山は大石寺衆旦にも快く受け入れられなかったようだ。其の後、相承に不備を感じた日舜は、敬台院の助言を受けて日精所持の什物等を全て引き渡すよう迫り、正保二年、病中の日精を江戸に訪ね。什物の引き渡しをさせる。
問題はこれで収まったかに見えたが、やがて衆旦を巻き込んだ大事件へと発展してゆく。
登座したものの、終始居心地の悪さを感じていた日舜は、慶安四年ころ隠居を決意し、衆旦の要望も強かった日典を後住にしようと、当時談林にいた日典に迎えを遣わした。要請に応えて登山した日典だったが、実は登山前に江戸の日精と相談し、日舜には相承が無いことを知らされ、従って日舜からは相承を受けないことなどを内談していた。日精と日典は要法寺時代より共に日就の弟子で兄弟弟子であった。日精は、敬台院によって追い出されたことに恨みを持ち、いつか大石寺から隠然たる敬台院の影響を除き、自分の立場を安定させようと考えていた。そのための先の「偽相承」でもあった。日舜の隠居はそれを実行する絶好の機会であると考えた日精は、登山した日典にこのことを日舜にぶつけさせて勝負に出たのである。これに驚いた日舜は、日精に相承の実不実を糺そうとしたが、日精側は、かつて久成坊に預けてあった証文を持参させ、これを日舜に披見させたのである。この証文には、日舜には相承を渡していないこと、後住が決まったら日舜を除歴することなどがつづられていた。日舜はここに至って始めて日精の計画の全貌を知ったのであった。衆旦に日典を後住に要望させたのも、日精だったと知ったのである。
これに激怒した日舜は、敬台院を後ろ盾に、公儀へと訴え出た。訴えられたのは日精ばかりではなく、大石寺衆旦の他、妙蓮寺や諸末寺までが訴えられたのである。日精も日舜がそこまで強硬に抵抗するとは予想していなかったようだ。公儀の介入を恐れた日精及び衆旦は、それまでの態度を一変し、事を鎮静化しようと計るのだった。その一つが、慶安四年十一月の日精の「返答書」である。日精はこの「返答書」で、『確かに寛永十八年の相承の時は「他家の相承」を渡したが、正保二年の什物引き渡しの時に、正式な相承も渡したつもりである。また、歴代から除歴するなどという話は、日典への相承が決着すればどうでもよいことではないか』、などと言い訳している。そして、なんとか日舜を収めさせようと、終には証人まで立てて詫び状手形を出して、日舜の怒りを鎮めさせたのであった。いったん矛を収めた日舜は、とりあえず日典に後住をまかせ隠居したのだったが、その後も、もし自分が先に死んでしまえば、また除歴云々が再燃するのではないかとの不安にかられていた。寛文五年頃になるとその不安が現実化した。日精・日典が先の手形を反故にする言動を始めたのだ。この時も日舜が再び公儀へ訴え出たため日精側はまた折れるしかなく、再度の手形を提出して収めたのだった。
その後、日典が隠居をほのめかすようになった。日典の隠居は日舜にとって喜ばしいことである。日典さえ隠居して後住に変わってしまえば大石寺での影響力も薄れ、自分の除歴話は消え、日精の圧力も無くなるだろうと考えたのであろう。日典に対し、なんやかやとの理屈を述べて、早く隠居して隠居所である妙蓮寺に移るべきであると促した。一方の日典は、これまたなんやかやと理由を付けて隠居を引き延ばし、終には、大石寺内の本堂の上に自分の隠居所を建設してしまった。これにいら立った日舜は、自ら大石寺に乗り込んで日典の大石寺私物化を訴えたのであるが、頼みの後見人である敬台院は既に没しており、多勢に無勢の中、日典に対し、ただ敬台院への亡恩や我儘な行動などをあげつらう他はなかった。寛文九年には、意を結して訴訟に打って出たが、今度は逆に、日精側から「日舜は自分が再登座するために衆旦を追い払い、当住の日典を追放しようと画策している」と訴えられてしまうのである。日舜遷化の四カ月前である。その後日舜が没したことでこの問題は一期に終結し、長寿であった日精は大石寺門内における影響力を復権させたのであった。
こうして、日精と敬台院との間で起こった確執は、日舜・日典及び大石寺衆旦を巻き込んでの長期にわたる騒動となった。歴史を振り返れば、これらの問題は要法寺との通用を嚆矢として、造仏読誦という教義問題を引きおこし、終には血脈相承の空疎な内実を暴露する結果となったのである。そして当時の大石寺は、通用とはいいながら、どう繕っても京都要法寺の末寺的立場であったことが明らかなのである