日蓮一門の身延入山に関する一考 4
【 令法久住・2 】
日蓮大聖人は文永10年(1273)4月25日、佐渡で著した「観心本尊抄」にて、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」と、久遠の仏の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足されており、それを受持することにより久遠の仏の因果の功徳が信奉者に譲り与えられるものであるという「受持即観心、自然譲与」を示します。
そして「此の釈に闘諍之時と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指す也。此の時、地涌千界出現して本門の釈尊は脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦、未だ此の本尊有さず。」と、自界叛逆・西海(他国)侵逼の二難が起きた時に、地涌千界の大士が出現して「本門の釈尊は脇士となる一閻浮提第一の本尊」が日本国に立つことを宣言します。
続いて同年閏5月11日の「顕仏未来記」では、「爾(しか)りと雖も仏の滅後に於て、四味三教等の邪執を捨てゝ実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。」と「本門の本尊、妙法蓮華経の五字」の一閻浮提への広宣流布を説きます。
「観心本尊抄」の「一閻浮提第一の本尊」「釈尊の因行果徳の二法・妙法蓮華経の五字」は直ちに日蓮大聖人の手で顕せるものであり、その「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」とした以上、具体化、顕現させる必要がありました。このような意による身延山中での曼荼羅図顕となり、「閻浮提に広宣流布せしめん」との情熱と、檀越の増加に伴い門下の曼荼羅授与の要請も比例したことが、身延期の曼荼羅の数量に表れているのではないかと考えるのです。
次に注法華経・十巻に注目してみましょう。
法華経八巻、無量義経一巻、仏説観普賢菩薩行法経一巻の本経行間、紙背に経釈の要文を注記した「私集最要文注法華経=注法華経・十巻」の成立時期については、立正安国会の片岡随喜氏は「筆跡より推考すれば身延入山以降の注記」とし、稲田海素氏も同意見。
山中喜八氏は「筆跡は立宗前後の注記とは拝し難く、早いもので文永9年(1272)、遅いもので弘安初年(1278)であり、大半は文永11年(1274)から建治3年(1277)に亘る期間のもの」(趣意)と推定されています(「日蓮聖人真蹟の世界・下」山中喜八氏 1993 雄山閣)。
書簡、曼荼羅の数量と膨大な注法華経の書き込み・・・・
これらのことは日蓮大聖人が身延山においていかに筆をふるったか、また、本尊としての曼荼羅の相貌座配の整足(本尊)と「日蓮が法門」の内的充足=教理面の整備・充実、完成に力を注いだことを表しているものであり、大聖人が「山林に交わる」意味がどこにあったか、即ち本尊・教義という宗教の根本要件を充たすことに精励せんとし、また実行したことが理解できるのです。
特に従来からの「法華経の行者」との自らの呼称を継続したことに加え、身延入山以降は釈尊より付属を受けた上行菩薩と直接または暗示する表現が増えており、自己の「教理的位置付け」について内外に示し後代に残すこともまた、入山の意としてあったのではないかと思われるのです。
もちろん、日蓮大聖人の教導は文書によるものだけではなく、実際に多くの弟子を身延の草庵で育成しており、書簡等から身延山の師匠のもとにいたことが確認できる弟子を列挙してみましょう。
日朗、日高、三位房、大進阿闍梨、日興、日頂、日向、日永、豊後房、丹波房、山伏房
身延を訪れた檀越
南条時光、南条七郎五郎、阿仏房、藤九郎盛綱、九郎太郎、国府入道、富木常忍、曾谷法蓮、四条金吾、高橋入道、西山氏、三沢氏、松野氏、松野尼御前、出雲尼御前、内記左近入道、波木井次郎、藤兵衛、右馬の入道、三郎兵衛、兵衛志殿御前、武蔵房圓日
(有力檀越の使いの人物もいます)
身延以前、佐渡期までの「弥菩提心強盛にして申せばいよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし」(報恩抄)の間は(文永8年の法難以前の鎌倉での数年を除いては)、自らの居所すら定まらない状況でしたから、弟子・檀越への法門教導は一定期間特定の場所に身を置いた「身延期」であればこそ、可能になったものといえるでしょう。