安房国清澄寺に関する一考 26

【 文覚 】

挙兵に先立つ伊豆蛭島での流人時代、頼朝と親交があったとされるのが神護寺の僧・文覚(もんがく 保延5年・1139~建仁3年・1203)です。青年時代は北面の武士・遠藤盛遠として鳥羽天皇の第2皇女・統子内親王に仕えていましたが、19歳で出家しています。

実際の日時は不明ですが、神護寺再興を御所で訴えたところ(「平家物語」は治承3年[1179]3月とする)、後白河法皇の怒りに触れ伊豆国に流されてしまいました。

「愚管抄」には「(治承)四(1180)年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝になれたりける」とあり、文覚は同じく配流の身であった頼朝と知遇を得たといいます。「平家物語」では、文覚は頼朝に打倒平家を働きかけるも、「そのようなことは思いもよらず。私は池の禅尼(平清盛の継母)に助けられた身であるので、その恩を報じるために毎日、法華経一部を転読するほかに他事はない」と渋る頼朝に、父・源義朝(保安4年・1123~平治2年・1160)のものだという髑髏を見せるも、頼朝は「勅勘の身では謀反を起こせない」と伝えると文覚は福原の新都に向かい、8日後には後白河法皇の平家打倒の院宣を頼朝に渡し、挙兵を決断させたとしています。

ただし、父・義朝の髑髏云々については、以下の「吾妻鑑」との整合性がないものと思われます。頼朝と文覚の関係は「玉葉」にも記録されるところで、寿永2年(1183)7月に入京した源(木曽)義仲(久寿元年・1154~寿永3年・1184)軍の平家追討懈怠、市中での乱暴狼藉を勘発(かんほつ=譴責[けんせき])するため、同年9月25日、頼朝は文覚を派遣したことを記しています。

また「吾妻鑑」文治元年(1185)8月30日条も、頼朝と文覚の関係が理解できるものとなっています。平氏一門が滅亡し天下が平定された今、頼朝は父・義朝の菩提を弔うため鎌倉に寺院を建立することを発願し、後白河法皇に相談。法皇は頼朝の平家討伐の功に感じ、刑官に命じて義朝の遺骨を探させたところ、東の獄門のあたりで義朝の首が見つかります。勅使の江判官公朝一行が義朝の遺骨と義朝に仕えた鎌田政長の首を携えて鎌倉に向かい、頼朝はこれを出迎えるために稲瀬川の辺りまで向かいます。父・義朝の遺骨は文覚の門弟が首にかけており、頼朝は自ら受け取って幕府に帰ったと伝えています。

以上の「玉葉」「吾妻鑑」等の記事よりすれば、頼朝は文覚に相当な信頼をよせていたことがうかがわれます。