安房国清澄寺に関する一考 27

【 行慈と性我 】

文覚の弟子も頼朝の信任を得て、鎌倉で活動しています。

「東寺講堂仏共被籠真言」(金沢文庫蔵)の奥書に「修理人高尾上人文覚上人弟子二人 大覚房行慈 恵眼房性我 建久九年(1198)正月記之云云」とあり、行慈と性我は東密の僧で文覚の弟子であったことがうかがわれます(櫛田P487)。

文治元年(1185)9月3日、源義朝の遺骨と鎌田政長の遺骨は南御堂(勝長寿院)に葬られました。この時は文覚の弟子・恵眼房性我と、走湯山住侶・専光房良暹等が導師を務めています。

同年10月24日、頼朝が父・義朝の菩提を弔うために発願した、南御堂・勝長寿院の開基の法要が営まれます。鎌倉における頼朝建立の初の寺院でした。勝長寿院の初代別当には性我が補任され、頼朝・政子の帰依を一身に受けたといいます。

「吾妻鏡」文治3年(1187)1月8日条に「営中の心経会なり。導師は行慈法橋と」と記され、行慈の頼朝営中への出仕が確認できるので、師の文覚が京に戻り神護寺再興に力を注ぐのと入れ替わるようにして、弟子・行慈が鎌倉での活動を始めたことが確認できます。

建久4年(1193)3月13日、後白河法皇一周忌の千僧供養が修せられ、行慈は100僧が従う10人の宿老僧の一人として他の老僧と共に道場の選定、接待の手配等の指揮を執っています。

建久10年(1199)1月13日、源頼朝は死去。「吾妻鑑」同年の3月2日条には、「故将軍四十九日の御仏事なり。導師は大学法眼行慈と」とあって、行慈が頼朝四十九日忌法要の導師を務めたことを記録しています。