安房国清澄寺に関する一考 22

【 新猿楽記と梁塵秘抄 】

日金山を神聖の地として崇拝した山岳信仰から走湯山の歴史が始まったと考えられますが、往古よりその名は知られていたようです。

平安時代の学者・藤原明衡(ふじわらのあきひら 永祚元年・989?~冶暦2年・1066)が著した「新猿楽記」(しんさるごうき)には、

次郎者一生不犯之大験者,三業相応之真言師也。 (中略)凡其言之道究底,苦行之功拔傍,遂十安居,満一落叉度度。通大峰、葛木、踏迎道年年,熊野、金峰、越中立山、伊豆走湯根本中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、高野、粉河、箕尾、葛川等之間,無不競行挑験。山臥修行者,昔雖役行者、浄蔵貴所,只一陀羅尼之験者也。今於右衛門尉次郎君者,己智行具足生佛也。

とあります。

生涯不犯を貫いた山伏にして、身口意三業相応の真言師でもあった次郎についての記述の中で、山岳修行の場として熊野、金峰、立山、伯耆大山、富士山、白山、高野といった名立たる霊地と共に伊豆走湯根本中堂が並び出ており、平安中期には全国に名が知られるほどの霊験所となっていました。

後白河法皇(大治2年・1127~建久3年・1192)が編者となって治承年間(1177~1184)に成立したとされる「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)にも、

四方(よも)の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生戸、讃岐の志度の道場とこそ聞け。

とあります。

そのような所へ東密の祖・空海が来山した、台密の大成者・安然が修行したという伝承は、走湯山では平安時代から東密僧と台密僧が活動したことを物語っているもの、といえるのではないでしょうか。