安房国清澄寺に関する一考 23

【 源頼朝と文陽房覚淵 】

時代は下って平安末期、伊豆に配流中の源頼朝が監視役の伊東祐親(いとうすけちか ?~寿永元年・1182)の娘・八重姫と秘かに通じ、安元元年(1175)9月、激怒した祐親が頼朝の殺害を図った時、頼朝は間一髪で走湯山に逃げ込み、北条時政(保延4年・1138~建保3年・1215)の館に匿われています。北条政子との逢瀬の舞台は走湯山だったと伝わります。

「吾妻鑑」治承4年(1180)7月5日条の、源頼朝と文陽房覚淵のやり取りは興味深いものがあります。

伊豆走湯山の密厳院を開創した東寺の僧・文陽房覚淵は頼朝の帰依を受けていました。治承4年7月5日、頼朝は覚淵を配所に招き「吾心底に挟むこと有り」(挙兵平家討滅のことか)と覚淵に秘かに明かし、続けて「法華経一千部読誦を成し遂げて、その功を以て自らの真意を表明しようと法華経読誦をしてきたが、世の動きは慌ただしく火急を要することになり(5月26日、以仁王と源頼政らが平家に敗れていた)、続けるのは難しくなった。そこで八百部で打ち切り仏陀に捧げようと思うのだが、いかがだろうか」と語ります。

覚淵は「一千部に満たざると雖も、啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり」と一千部に満たなくても神仏の御意に叶わないはずはないと返答。覚淵は香花を仏前に供えて表白を読み上げます。

その後「君は忝なくも八幡大菩薩の氏人、法華八軸の持者なり。八幡太郎の遺跡を稟(う)け、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、八逆の凶徒八條入道相国(平清盛)一族を退治せしめ給うの条、掌裡に有り。これ併しながら、この経八百部読誦の加護に依るべし」と平清盛一族を退治することは八幡太郎義家の業績を継ぐ頼朝の手に握られており、それは法華経八百部読誦の加護によるものである等と語っています。

これを聞いた頼朝は大いに感嘆して施物を贈ります。晩になり導師・覚淵が門外に出ると再び呼び戻し、「世上無為の時、蛭島に於いては今日の布施たるべき」と世が平和になったならば、この蛭島は今日の布施として覚淵に与えよう、と約束します。実際、「(醍醐)三宝院文書」(櫛田P484)によれば、応永6年(1399)6月25日到来、走湯山領知行に「蛭島郷」が寺領として記入されています。