安房国清澄寺に関する一考 8

【 清澄寺大衆の信仰の内実・人物の構成 】

「清澄寺大衆中」では日本亡国の因である真言を弘めた者として、台密の円仁、東密の空海を名指しで批判しています。再掲となりますが要点をまとめます。

・真言宗こそが法華経を破失する教えであり、それは大事なことであるとする。

・日本国が法華経の正義を失って、大衆が悪道に堕ちてしまうのは真言宗の誤りによるとして、当時の台密寺院の潅頂などを描きながら真言批判を展開。

・真言の経典は爾前権経の内の華厳経や般若経にも劣っているのに、天台の円仁、東密の空海が経典の高低浅深に迷惑して、「法華経に同じである」または「法華経に勝れる」などと唱え邪義を流布させた。仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言により開眼供養した故に、日本国の木画の諸像は皆、無魂・無眼の像となってしまった。結局は、仏ではなく、天魔が入るところとなり、祈願する檀那を滅ぼしてしまう仏像となってしまった。王法が尽きようするのは、真言の亡国の悪法によるものなのである。この悪法・真言が鎌倉に来たり流布して、今又、日本国を滅ぼそうとしているのであるとする。

・故郷の清澄寺大衆が抱いたであろう、日蓮に対する疑念を、日本国の有智、無智、上下万民は言う。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳よりも優れるということはない」と表現。

・日蓮はこのような不審を晴らすために、正嘉元年の大地震、文永元年の大彗星を見て考え言ったのである。「我が国に二つの大難があるであろう。それは自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に北条義時(権の大夫殿)の子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方から起こるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これ偏に、仏法が一国挙げて邪であるために、大梵天王・帝釈天王が他国に言いつけて攻められるのである。日蓮を用いないならば、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような名将が百千万人いたところで叶わないのである。これらが真でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じることにしよう」と言い広めてきたのである、として蒙古襲来による亡国以前に日蓮が説示する法華経を信仰するよう強く促している。

このような文中の真言批判と、悪法が弘まった元凶とする台密・円仁と東密・空海への批判により、清澄寺大衆の信仰の内実・人物の構成というものは、真言・東密と天台・台密であったと理解できるのではないでしょうか。例えば禅の信奉者に日蓮法華を信仰すべきことを説くのに、東密批判をしても的外れで意味はなく、禅に対する批判をした後、説教者の信仰を受持すべきことを説くのが布教をなす時の道理というものでしょう。

清澄寺大衆に宛てた書で東密・台密を批判し、日蓮説示の法華経信仰を勧奨するのに、「虚空蔵菩薩の前で大衆ごとに読み聞かせなさい」としたこと、即ち亡国という事態、安房に蒙古が攻め寄せる最悪の展開となる前に在山者全てが東密・台密の誤りを知るべきであるとしたところに、清澄寺大衆の信仰がどのようなものであったかを知ることができると考えるのです。

もちろん「富木殿御書」(建治3年8月23日)や「大田殿許御書」(文永12年[または建治2年か3年]1月24日)のように、一人の檀越に宛てた一書に東密・台密を批判した書もありますが、日蓮大聖人が清澄寺関係者に宛てた書については、単に「この時期は真言批判が始まった頃だから」「台密批判を盛んに行っていた時期だから」台東批判を書き込んだ、というものではないと思われます。

「清澄寺大衆中」

虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ。

「聖密房御書」

これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。(虚空蔵菩薩の前で読めば、周囲の者も耳を傾けたことと思う)

「別当御房御返事」

聖密房のふみにくはしくかきて候。よりあいてきかせ給ひ候へ。

「種種御振舞御書」

他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。

これらの記述は、当人のみならず周囲の者が読むことを多分に意識していた、また「読むべき、知るべきである」としたものといえるのではないでしょうか。

このような大聖人の書の宛先となった人物の周囲は、日蓮法華信奉者よりも他の法系に連なる者の方が多かったでしょうから、そこには法華勧奨をなすにあたって周囲の者が信奉する「誤れる教え」を批判する意が込められていると考えてよいでしょう。「清澄寺大衆中」だけではなく、これから見るように大聖人が清澄寺と周辺に送った書には、繰り返し東密・台密の教理と諸師の批判が行われています。故に清澄寺大衆や周囲の僧は、真言・東密、天台・台密の法脈の者が多かったと考えられるのではないでしょうか。