共に歩み、共に生きた師匠を後世に伝えるということ
日蓮大聖人が池上宗仲・宗長の兄弟に送られた「兄弟抄」を拝しているのですが、師が慈愛を注ぎこむように励まし包容された兄弟・第六天の魔王の働きを教示された兄弟も、師の滅後は日朗の側、即ち「五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり」(富士一跡門徒存知の事)の側の人となりました。
「師の晩年、君たちはどう生きるか」
昔も今も、問われているのはこれだと思います。
以下は御影に関してです。
宗仲の屋敷跡に建てられたと伝わるのが大坊本行寺。宗仲はさらに広大な土地を日朗に付与し、伽藍が建立されて池上本門寺になったと伝わります。大聖人の七回忌となる正応元年(1288)、日持と日浄が願主となり師の御影が造立されており、現在の池上本門寺・大堂に安置されています。
御影と言えば、日蓮大聖人亡き後、ほどなくして身延山には御影堂がつくられています。
「尊師実録」 日蓮宗宗学全書2巻p411
弘安七年甲申・五月十二日、甲州身延山へ登山、同年十月十三日、大聖人第三回御仏事に相当たる日、始て日興上人に対面、御影堂出仕云々
「祖師伝」京都要法寺・日辰著 富士宗学要集5巻p39
日尊の伝
弘安七甲申年師目公に従つて甲州身延山に登り玉ふ時に五月十二日なり、同き年十月十三日始て日興上人に値ひ奉り御影堂に出仕し蓮祖第三回の追薦に値ひ奉り玉ふなり
弘安7年(1284)、日興上人は身延山で日尊と対面して、大衆とともに大聖人の三回忌を執り行いましたが、その場所は師匠の姿を刻んだ御影像を奉安した御影堂だったようです。
師匠入滅後のわずか2年で御影をつくるところに、「師の姿を正しく後世に伝えよう」との日興上人をはじめとした一門の「こころ」が感じられます。
一方、戒壇板本尊造立の時に、弟子の日法が板本尊を作成した木材の切れ端を使って御影を作り、大聖人が「我が姿に似ている」と誉められたとの記述が「富士大石寺明細誌」にあります。
聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり
実際は、日興上人一門が師の絵像を作成するのに苦労したことが「富士一跡門徒存知の事」 に記録されており、師が掌にされた像があればそのような労もないわけですから、伝承ということになるでしょうか。
師の絵像作成にまつわる、日興上人一門の記録を確認してみましょう。
富士一跡門徒存知の事
一、聖人御影像の事。
或は五人と云い或は在家と云い絵像木像に図し奉る事在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け有りの侭に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と付け置く。
意訳
五老僧方や在家の方達が師の絵像・木像を作ってきましたが、それらは多方面に数知れないほどあります。しかし、それぞれ姿形が異なっています。
ここに日興がいうには、日蓮大聖人の御影を作るのは、後代にそのお姿を知らしめていくためです。ですから、ありのままの、大聖人のお姿を描くべきです。それにより、日興門徒の在家・出家の皆、聖人を拝見した者達が一同に評議を行い、その年月に描いたのです。
聖人と全体は異なりませんでしたが、大概は荒っぽいものを描きました。そこで裏書をなしました。それぞれの図・像が一つも似ていない中に、1313年・正和2年、三位日順が描いた絵の原本がありました。
大聖人に似ている分はありませんでしたが、他の像よりも少し大聖人の面影が有りました。そこで、日興は後輩の皆と似ているか否か、是非を論じ合いましたが、結局、裏書に「似ていない」と書いたのです。
微笑ましいような、諸師の努力に感心することしきりですが、師匠の姿一つを後世に残すだけでも、大変な労力を要することを伝えるエピソードだと思います。