産湯相承物語(18)

18・二天(日神、月神)、十なり


 出雲関連記述と同様に、保田本に見られる内容として、「日神と月神とを合して文字を訓ずれば十なり、十羅刹と申すは 諸神を一体に束ね合せたる深義なり」という記述がある。


御実名縁起、日教本に見られないことから、出雲関連記述と同様に保田本の書写時における附加の可能性が高いと考えられるが、それにしても、論理的な通解の困難さとともに「十」の意味が分かりにくいことが、保田本のみならず産湯相承それ自体を敬遠することに繋がっていると思われる。


 しかし、この「十」という表現が、意味する内容は、以下のように直感的で単純なことではないかと考えられる。


 まず、日神と月神の合体について、天照太神の「天」 の字を、「二」と「人」に分解し、「天照太神」=「二人の照らす太神」と理解した上で、照らすのは「日」と「月」であることから、「天照太神」=「日天+月天」と理解する。(注)


 そして、日天と月天を「結び付ける」ということについて、紐の結び目の十文字を想定し、その「十」を十羅刹の十に擬(なぞら)えて、十羅刹が日天と月天を結び付け、その結果が天照太神になるとして、(本)十羅刹 →(迹)天照太神という構成を説明している。


 しかしながら、これだけでは先に見た「釈迦 ≡ 十羅刹 ≡ 天照太神 ≡ 日蓮」という関係にまではたどり着けないことから、最後に「十羅刹と申すは 諸神を一体に束ね合せたる深義なり」という思わせぶりな解説を置いている。


 もとより相伝の「深義」ということなので、部外者には知る由もないことなのだろうが、言わんとすることは、十は束ねるという意味で、しかも束ねた結果が天照太神に相当するだけではなく、「十」には十全という如く「完全」とか「すべて」という意味があることから、諸天の「すべて」を「束ねる」ものであり、また、日神と月神は天を照らすことから「光」を意味し、そこからは「十」の字形と併せて仏教そのものの法輪「卍」を連想させることにもなる。


 さらには、束ね纏めることと「十」ということでは、「一念三千は十界御具よりことはじまれり」(全p189) という十界互具の「十」のと重ね合わせることもできる。


このように思いを馳せれば、十羅刹を媒介として、天照太神だけでなく、仏教そのものである釈迦と、釈迦と同様に日輪の誕生である日蓮大聖人の一体性を覚るべきである、ということを伝えたかったのではないだろうか。


 つまり「文字を訓ずれば十なり」とは、「文字の意味するところは十羅刹の働きであり、それは、完全であり光であり法輪であり、仏教のすべてを包摂している」というような意味になるものと思われる。このため、「十なり」は、決して意味不明な内容ではなく、むしろ、端的な表現で日蓮大聖人への信仰を伝えようとしていたものと考えることができる。

(注)『本尊三度相伝』も、「天と云ふ字は二人と書く是れ則陰陽の二なり、明神の明と云ふ字は又日月と書けり則ち日月は陰陽の躰、本迹の二門なり」(富士宗学要集1巻p39)としている。

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