カナリア氏が早速、核心を突く投稿をしてくださった。
私は、その上で更に補足になればとの思いで微力ながら記してみた
い。
2026年、大白蓮華11月号P36から表題の新連載が始まった。
第一回は原典である1995年2月号から4月号までの3回分を「序論」とし、そのタイトル毎に(1)~(3)として抜粋した内容となっている。
ポイントはこの「抜粋」にある。つまりはどの範囲を抜粋し、どの内容を省略したのか。
この省略部分を深掘りすることで、新連載が何を目的とし、どのような姿勢で構成されているのか、その本質と実態がより鮮明になるはずである。
カナリア氏ご指摘の通り、最重要と思われるP41下段の続きとして原典の「法華経をどう読むべきかを、大聖人は『御義口伝』として残してくださっている。この『御義口伝』を、深く、厳格に拝しながら、二十一世紀へ『法華経を語る』壮大な挑戦の旅を、読者とともに始めたい。若き諸君の英知を借りながら。」の範囲を端折ったことは極めて問題である。
この池田先生の思いこそが「法華経の智慧」を当時の教学部の方々と編まれた確固たる意志と断ずる。ここが原典における「序論」としての記念すべき連載第一回目の最後の急所であると拝する。
ここを端折ることは「御義口伝を用いない」と宣言しているに等しく、御義口伝を用いないということは、つまるところ「日蓮大聖人の文底の読み方をしない」ということである。
また「若き諸君の英知を借りながら」の言葉にある通り、この「法華経の智慧」は当時の教学部最高幹部の3名との座談形式で織りなされ、深い仏教学識や知見はもとより古今の教養・哲学にも精通した問答から積み上げられた結晶ゆえに、大聖人仏法の奥義とも呼べる珠玉の教学書になったと私は思っている。
この3名による応答や、深い投げかけの問いも全て省いてしまっては日蓮仏法の真髄に到達することはできず「法華経の智慧」は成立し得ないと断ずる。
寿量品も弥勒菩薩からの問答にはじまり、立正安国論も問答形式であり、観心本尊抄に至っては、その寿量品の三請三誡に倣って三誡四請して真実を説くという問答形式を取られている。仏法の化導方法において問答形式は重要な意義を持つと思われる。
そのような背景や重要な範囲を端折っておきながら、逆にその後のP42、(2)「『生命』がキーワードの時代へ」の抜粋内容は極めて重要である。
戸田先生の獄中の悟達についての範囲をしっかり抜粋している。ここは要約すると「戸田先生の悟達は、そのまま日蓮大聖人の仏法の極説に通ずる」とあることから、大聖人の極説=御義口伝を根本として悟達された戸田先生のご確信を創価学会の原点として、ここから話を展開していくとのご教示と拝する。
しかしP44の小題「『生命論』に創価学会の原点」の一段落後に、原典ではこう続く。
「日蓮大聖人の仏法は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られた。それを全民衆が覚知し幸福への道を開いていくために御本尊をあらわされ、『御義口伝』をはじめ諸御書で生命哲学を説かれたのです。すなわち、生命論こそが仏法の本体であった」(法華経の智慧第1巻P37聖教ワイド文庫版)と。
原典の「法華経の智慧」を学び、2010年以前の教学書を学んで来た会員にとっては当然の前提知識であると思われるが、この学会教学の基本となる範囲を省略する意図は何なのであろうか。
そして私は、次の範囲が最も重要と思っている。
大白11月号P44下段最後の段落の範囲の中に、
「本来、『仏』も『法』も、別々のものではない。『生命』と言った場合には、その両面が含まれる」とあるが、これは端的にではあるが「生命=人法一箇」を説かれているのである。
つまりは「南無妙法蓮華経」とは、決して「法」だけの側面ではなく、池田先生は「生命の本源の当体」と説かれている。
これも極めて重要である。後に、この新連載を終え、単行本化する際には削除されているかも知れない範囲と思われるからである。
最後の「(3)民衆に呼びかける経典」では、小題「法華経はだれのための経典か」の範囲から「あなた以上に尊いものはない」までの範囲は原典では実に数ページに及ぶ内容であるが、ごっそりと省略されている。
要約すると、そこには「その尊い立派な教えを伝持する教団や、そのリーダーが自省を忘れると権威化し、民衆から遊離していく危険を常にもっている。一部の聖職者が権威を独占し、信徒はその権威に従属していくという伝統教団の在り方では、現代社会にはとうてい適応できないことは確か」
また「社会で現実と格闘している人間にしか、社会で生きる人々の心は分からない。(略)ともあれ、二十一世紀の宗教は、民衆が自分で考え、自分で賢明に生き方を求める『自立』の智慧を与えるものでなければならないでしょう」等である。
この範囲等は対宗門を破折していく意図が多分にあったと思われるが、30年を経た今、残念ながら現組織にも当てはまるものとして改めて学び直し、感じた次第である。
また「法華経はだれのための経典か」の範囲の中に「法華経は大聖人のために説かれたと仰せなのです」を改めて拝し、想起したことがある。
それは、この「法華経の智慧」の鼎談者の一人である元副教学部長の須田晴夫氏が、著書「新版日蓮の思想と生涯」(P29)の中で「序分・正宗分・流通分という区別でいえば、三大秘法こそが日蓮が弘通した正宗分であり、二十八品の法華経は序分および流通分に位置づけられる、この点について池田大作創価学会名誉会長は『二十八品は、三大秘法の仏法の序分として流通分として用いるのである』(旧版『創価学会版妙法蓮華経開結』序文)と述べている」のところであるが、要するに日蓮大聖人は二十八品の法華経を弘めようとされたのではなく、その文底に秘沈されていた南無妙法蓮華経の弘通こそが目的であって、法華経は、その三大秘法の南無妙法蓮華経を弘通する手段として用いられていかれたということを理解しなければ、そもそも「法華経の智慧」の読み方として正しくないではないかと強く感じる次第である。
冒頭で、この第一回目「序論」の急所であるところの「御義口伝」について省略するという致命的な過失を指摘した。
これは、この先の連載での「抜粋」内容は、悉く「文底の読み方」で説かれている箇所や範囲を省いていくことになると推察する。
何故なら、創価学会教学要綱が示す教義は文上の解釈に終始しているからである。
「要綱」の教義を浸透させていきたいベクトルと相反するからである。
「文底の読み方」で説かれた範囲が抜粋されると「要綱」の内容に齟齬をきたすことになるため、そのような編集を貫くことになるだろう。
しかし、これは難しい。
何故なら原典の「法華経の智慧」は、その「文底の読み方」で説かれていることばかりであるからだ。(いや、当たり前のことなのだが)
既に触れた通り、人法一箇についての概念を含んだ内容が今回含まれている。
これは、後々ボディブローのように効いてくることは間違いない。
この連載を終えた時、私の仮説は正しかったと証明できるだろう。
引き続き、12月号も楽しみに待ちたいと思う。
以下、原典の「法華経の智慧」より、今、この時のためと思われる大事なところを引用して終える。
「『僭聖』の正体を民衆に暴くことが大事なのです。一部の人が目覚めただけでは、社会は変わりません。
だから、行動を起こして僭聖増上慢をあぶり出すしかないのです。煎じ詰めれば、その社会の人々が、法華経の行者を捨てるか、僭聖増上慢を捨てるかです。
法華経の行者を捨てた社会は、僭聖増上慢に操られたまま、結局は亡国の道をたどっていかざるをえない。そうならないために闘うのです。『三類の強敵との戦い』は即『立正安国の戦い』なのです」
(第3巻P175聖教ワイド文庫版)