WELCOME「所沢問答」Ⅲ

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投書者:創大5期 廣川 文彦

 明日7月16日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を提出された日です。大聖人様はどのような思いで国家諌暁をされたのでしょうか。
創大4期生の図斉氏は、すでに30本以上の「論考」を幹部の方々に送られています。
仏法の危機にあたって正義を護ろうとする図斉氏の思いは、大聖人の御精神に通ずるものがあると私には感じられます。
以下は、図斉氏が副会長2名を含む所沢の最高幹部の方々へ「教学要綱」の質問会開催を要請したメールに対し、私が一斉返信したものです。

「図斉さま、皆さま
メール拝読いたしました。私からは6回目のご返信となります。

今回、私が申し上げたいのは、仏法の根本に厳然と示されている「依法不依人(えほうふえにん)」の原則についてです。私たちにとっての「法」とは、日蓮大聖人が説かれた法理であり、教義そのものです。そして広義には、三代会長、就中(なかんずく)池田先生のご指導やご指南(御書講義の解釈を含む)を指すことに、皆さま異論はないかと存じます。
一方で、組織とは人の集まりであり、「法」ではありません。したがって、いかなる「組織の決定」であっても、法理や教義に優先することは断じてあってはなりません。

かつて宗門と闘った際、私たちは『日興遺誡置文』の一節を何度も引いてまいりました。
「時の貫首為りと雖も仏法に相異して己義を構えば之を用う可からざる事」
この御文が示す通り、現在の最高幹部や組織の意思決定が「仏法に相異(違背)」しているか否か。それこそが、私たちが今、見極めるべき最も重要な基準です。創立100周年を目前に控えた創価学会は今、歴史的な分岐点に立っていると言わざるを得ません。

私の創大の後輩(30期生)で、東京荒川区在住のMR上野君が、非常に深い考察に基づいた論考を発信しています。ぜひご一読ください。 https://jikatsu.net/83338/ 

私から今回は、先生とアイトマートフ氏との対談集の中から、示唆に富む一節を紹介させていただきたいと思います。

『大いなる魂の詩(下)』(第六章 内面へのはるかな旅「ドストエフスキーの宗教観」文庫本221頁)より、以下、池田先生の御言葉です。

『池田: 民衆の幸福に奉仕するはずの聖職者が、神の名のもとに、貪欲に「いけにえの子羊」を求め始める転倒――残念なことですが、それが歴史の常です。そして私たちSGIが、今、展開しているのも、まさに、そうした「権力化した宗教」に対する戦いなのです。

 聖職者がひとたび、人間を奴隷化しようという欲望に取りつかれると、どれほど堕落するものなのか。どれほど権力の獣性をむきだしにしてくるものなのか。私たちは、その醜さを、つぶさに見てきました。
 そこで痛感することは、民衆が堕落した聖職者に対して沈黙し、手をこまねいているならば、「権力化した宗教」は、どこまでも民衆につけ入り、抑圧の魔手を伸ばしてくるということです。善意の人々が、その善意ゆえに、不幸のどん底に投げ入れられてしまうという悲劇です。

 この悲劇から逃れる道はただ一つ――「徹底して戦いぬく」ことしかない。民衆が、権威や慣習や伝統の威光に目をくらまされることなく、信仰の正義を守りぬくしかありません。

 民衆が戦うべき時に戦わなければ、どれほど陰惨な結果を招いてしまうか。その「戦うべき時」の大切さを教えてくれる文学作品に、ブルガリアを代表する現代作家、アントン・ドンチェフ氏の『別れの時』があります。

 舞台はオスマン・トルコ帝国支配下のブルガリア。トルコ人は、イスラム教への改宗を住民に強要します。拒否する者には、想像を絶する極刑が待っている。大勢に従い、次々と改宗していく人々――ドンチェフ氏は、支配者側の一人に、こう言わせています。「一頭の羊が歩きだす方向へほかの羊もついていく。おまえは羊を一頭、群れから引き離そうとしたことがあろう? たやすいことか? むずかしい。ほかの者たちから何と言われるか――これがやつらには辛いのだ」(松永緑彌訳、恒文社)と。

 周囲に雷同して自分を見失う。驕れる者に屈してしまう。悲劇は、そうした羊のような善良さゆえに増幅されていくのです。

 ゆえに人間は、「権力化した宗教」の前に断じて屈服してはならない。「小羊の群れ」であってはならないのです。創価学会の牧口常三郎初代会長は、よく「羊千匹より獅子一匹」と言われていました。大切なのは、獅子のごとき一人の勇者の存在です。権力に抗して戦う「民衆の導きの人」です。その一人のあとには、かならずや第二、第三の獅子がつづくでありましょう。一人の勇気ある行動の触発が、万人の自由の凱歌を生むのです。

 その意味で、私たちが進める「宗教革命」の闘争は、独り私たちが信奉する仏法の正義を守ることのみにとどまるものではありません。それは「宗教の権力化」という問題をめぐる、人類の流転の根本的な転換へ、まっすぐに道が通じている。私は、そう確信します。』

宗門と袂を分かった今の学会において、この「民衆を奴隷化しようとする聖職者」とは、一体誰を指しているのでしょうか。先生は現在の学会の変節を、すでに当時からご予見されていたのではないか・・と思えてなりません。

私たちは、どのような立場や境遇の違いがあろうとも、「池田先生の弟子である」という一点において永遠の同志です。

本部職員であれ一般会員であれ、先生の師恩に報いるべき時は、まさに「今」なのではないでしょうか!?」
ここで引用終わり。

原田教学部長が「毒」をまき散らし始めている。直近の開目抄講義(動画)32分過ぎ、以下のように述べている。

「日蓮正宗(日顕宗)の教学では、『御本仏』という表現には、日蓮大聖人が根本の仏であり、久遠実成の釈尊もその垂迹、仮の姿であるという意を含んでいますが、これは大聖人の御書には見られない解釈です。」

また、33分半ばでは
「釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、そこに、どちらが本仏か迹仏かなどといった上下関係や勝劣関係があるわけではありません。人間に優劣を付けないことと同じです。」とも述べている。

日蓮大聖人が「根本仏」であるということは、戸田先生・池田先生の一貫したご指南であり、創価学会が拠って立つ根幹教義そのものである。教学部長でありながら、それを「御書には見られない解釈」と断じる姿勢は言語道断と言わざるを得ない。さらに、本仏と迹仏という仏法上の法理(相対義)を、「人間に優劣を付けないことと同じ」とすり替え、全く次元の異なる話を混同させている。
これこそ、日蓮仏法の破壊行為そのものではないか。

創価大学の創立者である池田先生は、開学を祝して2体のブロンズ像を寄贈してくださった。そのうちの一体「天使と印刷工」の像の台座には、「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」との指針が刻まれている。

このメッセージには多角的な意味が込められていると思うが、今こそ「悪を見破り、悪と戦うための英知」として捉え直すべきではなかろうか。

正法・正義を死守するため、特に創価同窓の者達の覚醒が、求められているのではないでしょうか?
                    
所沢在住 創大5期 廣川文彦

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