疑問視される「大崎ルール」

投稿者:塚田政男

「大崎ルール」と『創価学会教学要綱』

 日蓮研究の分野において、日蓮の真筆または直弟子・孫弟子などによる古写本がない(あるいは、あったという記録がない)御書は日蓮研究の材料として用いない(排除する)という、いわゆる「大崎ルール」なるものがある。身延派日蓮宗の教育機関を源流にする立正大学の研究者グループが1950年代から主張してきたもので、学界では今日まで有力な基準になってきた。日蓮宗各派では相伝や真偽未決の御書が教義形成の基盤として用いられてきた事情があるため、資料の信頼性を確保するために提案されたものである。同大学が東京・品川区大崎にあるので俗称「大崎ルール」と呼ばれている。

 2023年発刊の『創価学会教学要綱』は、日興門流の相伝書または相伝書に準ずる書である「本因妙抄」「百六箇抄」「御義口伝」などを一切無視して排除しているので、この「大崎ルール」に準拠しているためと推定される。『教学要綱』の実質的な執筆者と目されている宮田幸一・創価大学名誉教授も、その論文を見る限り「大崎ルール」を基準にしていると見られる(宮田氏が『教学要綱』に関与していることは氏自身のフェイスブックから実証される)。しかし、「大崎ルール」については今日、さまざまな批判も出されており、日蓮研究における絶対的基準見なされていない。

三つの大きな批判点

学術的方法論としての特異性
 

 批判の第一には、法然・道元・親鸞など鎌倉仏教の研究に比べて日蓮を扱う「大崎ルール」が厳格過ぎて、中世仏教の研究態度として特異なものになっているということが挙げられる。

例えば法然は、主著である『選択集』を含めて真筆がほとんど残っていないので、後世に成立した伝記資料や弟子による記録を研究材料に用いて法然の思想を考察している。親鸞は法然に比べて真筆が残っているが、「歎異抄」など弟子の著作も法然研究の重要資料とされている。道元は主著『正法眼蔵』も真筆は一部しか残っておらず、後世による編集部分が混在している。真筆が極めて少ないので、各種の異本の比較を通して道元の思想を研究している。

要するに「真筆や古写本がないものは排除する」という態度では法然・親鸞・道元の研究は成立しない。このように見てくると「大崎ルール」は中世仏教研究の標準から逸脱した極めて特異なものになっている

② 日蓮像を限定する危険性
 

 批判の第二は、「大崎ルール」は真筆や古写本のないものを実質的に偽書と見なすので、真書の可能性もある「真偽未決」の御書が全て排除され、日蓮の実像が狭いものに限定される恐れがあるという点である。

厳密に言えば、真偽未決はあくまでも「未決」であって、「真偽未決=偽書」ではない。実際には「諸人御返事」のように、偽書の疑いが強いとされてきた御書でも後に真筆が発見され、一転して真書となった例も少なくない。従来、偽書説が強く出されていた「三大秘法抄」も、近年、六老僧の一人である民部日向のものと判定された写本が発見されたり(日向写本は2024年4月、身延山久遠寺の宝物館で展示された)、コンピューターによる用語解析の結果、真筆の可能性が高いという結論が出たりするなど(伊藤瑞叡『いまなぜ三大秘法抄か』)、真書の可能性が強くなった。従って真偽未決といっても、あくまでも現時点での情報による暫定的なものに過ぎず、現時点の判断を絶対視して未決のものを一律に切り捨てる「大崎ルール」の妥当性が問われる事態になっている。

 真偽未定の御書を全面的に排除する態度については、身延派日蓮宗の僧侶だった法華経学の権威・勝呂信浄博士も「日蓮聖人の宗教思想を実態よりも狭小に限定することになりかねないと思う。それは偏った日蓮像を作りあげることにもなるであろう」(「御遺文の真偽問題」)と批判している。

③ 各宗派の教義理解困難
 

批判の第三は、「大崎ルール」では各宗派・各教団が形成してきた思想を理解することができない、という点である。日蓮系各流派では、それぞれが伝承してきた口伝・相伝や真偽未決の御書を含めて形成してきた教義がある。しかし「大崎ルール」では文献学的に裏づけられない相伝や真偽未決の御書は全面的に排除されるので、各宗派の教義が認められないという事態が生ずる。

例えば日興門流では相伝書である「本因妙抄」「百六箇抄」「御義口伝」を基盤に門流の最初期から他門流とは異なる独自の教義を形成してきた。また日興門流の日蓮正宗の信徒団体として出発した創価学会もこれまで日興門流の教義に基づいて活動し、組織を築いてきた。しかし「大崎ルール」では、そのような各教団が築いてきた運動の思想的・歴史的意義を十分に捉えることができない。その意味では「大崎ルール」は文献学至上主義に傾き過ぎて一面的であり、宗教史の全体を把握する方法論としては不十分である。

 

結論 一過性のアカデミズムを絶対視する危険

 このような事情があるので、「大崎ルール」は立正大学では通用していても、他大学や歴史学や文学など他分野の研究者ではその限界が指摘されている。「大崎ルール」に従って真筆か偽書かに二分するのではなく、真書から完全な偽書まで段階化・階層化して分析し、真筆や古写本がなくても思想的・歴史的に重要な御書はその価値を認めることが妥当であるとするのである。研究者によっては、完全な偽書であってもそれが形成された事情にはそれなりの歴史的意味があるのだから日蓮思想の歴史的展開を示す資料として利用すべきであるとしている。

要するに今日の学際的立場からすれば、「大崎ルール」は文献学にこだわり過ぎていて日蓮の全体像と日蓮仏教の歴史を把握するには不十分であるという認識が広がっている。「大崎ルール」は、今や最新のデジタル人文学やAIによる計量文献学によって、さらなる再考を迫られている。従来の文献学が「現物の有無」という二元論に固執してきたのに対し、AIを用いた文体解析は統計的な確率によって「未決」の資料に新たな光を当てつつあるからだ。

 『創価学会教学要綱』は「大崎ルール」に従っていると推定されるので日興門流と創価学会が形成してきた教義から乖離する傾向が顕著だが、その背景には立正大学を中心にした日蓮学のアカデミーから評価されたいという、学界の評価を意識した姿勢がられる。しかし、立正大学が主唱してきた「大崎ルール」の限界が露わになっていることが示すように、学問的基準自体がテクノロジーの進化によって流動化し、より重層的な評価軸へと移行している。

時代によって変遷する一過性のアカデミズムを絶対視して、何世紀にもわたって形成され維持されてきた宗教的アイデンティティを裁断することの危うさは、今や誰の目にも明らかである。

疑問視される「大崎ルール」” に対して1件のコメントがあります。

  1. 1979 より:

    塚本さまの論考を興味深く拝見させていただきました。ありがとうございます。

    真筆や古写本のないものを実質的に偽書とする大崎ルールについては私も塚本さまに全く同意いたします。
    「勝呂信浄博士も『日蓮聖人の宗教思想を実態よりも狭小に限定することになりかねないと思う。それは偏った日蓮像を作りあげることにもなるであろう』と批判している」と述べられている通りの懸念を私も抱いております。
    まして、宮田氏らが学界からの評価を気にするあまり学界に忖度し、学会の宗教的正当性を失わせる結果を招いたことに憤りを禁じ得ません。
    私は「信仰」を抜きにした単なる学術や文献学のみで正しい大聖人像や正しい日蓮仏法に肉薄することは不可能だと思います。
    教学要綱には「信仰」が全く感じられません。執筆者自身に「信仰」がなく理論を弄ぶ姿勢があるからではないでしょうか。
    反対に「法華経の智慧」などには深遠なる仏法哲理とともにそこには「信仰」があり、読むたびに自らの信心をかき立てられます。
    一過性のアカデミズムを絶対視するのではなく、AIなどのさまざまな技術や議論、可能性が正しく日蓮研究に寄与し、新たな発見があることを期待しています。

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