【投書】創価学会教義変更における法的倫理的問題

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投書者:石楠花

要旨 
『教学要綱』によって創価学会は教義の重大な変更をしたが,それは会員に徹底周知されていない。このことは宗教的,倫理的問題を含むだけでなく,法的な問題もある。

『創価学会教学要綱』(以下『教学要綱』)が発刊されて,そろそろ2年が経つ(2023年11月16日発刊)。だが,筆者の所属する組織の学会員や昔からの知己に「教学要綱にはどんなことが書いてありますか。この要綱で学会教学はどう変わりましたか」と尋ねても,これまで聞いた100名近い人は誰も答えられなかった。答えられないどころか,『教学要綱』の名前すら知らない人も多かった。『教学要綱』で従来の学会教学が変更になったのはざっくりまとめると以下の通りである。

創価学会の重要教義の変更
宗祖日蓮大聖人の意義付と三宝の定義は教義の最重要項目である。それなのに,創価学会員にこのように重要な変更が浸透していないとはどういうことだろうか。これほどまでに重要な変更をしたのであれば,創価学会は組織の隅々に至るまで,この変更を知らしめる責任がある。それとも,『教義要綱』の発刊だけで,会員に十分な説明をしたと考えているのだろうか。『教義要綱』の存在すら知らない会員がいるのであれば,何ら説明責任を果たしているとは言えまい。本稿は教義の正邪を論究することを目的とするのではなく,創価学会の教義変更に対する法的,倫理的問題について論究する。

<法的問題>
宗教団体の信者は、入会時に「特定の教義を信奉する」ことを前提に入信しており、これは一種の信仰契約・信頼関係に基づいている。そのため、団体が根本教義を変更したにもかかわらず、信者に知らせない行為は、信義誠実の原則(民法第1条2項)に反する可能性があると言える。例えば,ある人が従来の教義に賛同し,入会したとする。ところが入会後に教義が変更になっていたことを知ったとすれば,それは一種の詐欺行為に等しいものと見做される。また,信者が寄付・献金・布施などを行うに際し,それが「従来の教義に基づく活動」と信じていた場合、錯誤や詐欺的要素が問題となることもある。つまり,学会員が「旧教義(大聖人=久遠元初の自受用報身如来,御本尊=法宝、日興上人=僧宝)」を信じたまま財務を行っている場合、献金行為の「動機の錯誤」にとどまらず、場合によっては要素の錯誤(民法95条)に該当する。さらに、指導者層が教義変更を知りながら,それを説明せず献金を促していた場合は、不告知による詐欺(民法96条)に近い構造になる。

創価学会は宗教法人であるが、献金勧誘の際に実質的に経済的取引(財務をを奨励する行為)が行われている以上、消費者契約法第4条2項(重要事項の不告知)や第4条1項(不実告知)に該当する余地がある。特に、「財務は最高の善行であり功徳を積むものだ」というような指導が、教義の改変内容を説明しないまま行われている場合、法的には信者の判断を誤らせる「不当勧誘」に該当し得る。これは,宗教法人が信教の自由(憲法20条)に基づく特別な地位を有するものである一方,「宗教活動の名の下に信者を欺いてはならない」という公正性・公益性が求められているからである。

つまり,ある会員が教義の変更を知らされないまま財務部員として納金した場合,後で消費者契約法第4条2項を元に創価学会を提訴することも可能だということだ。法律が宗教の教義に立ち入ることはない。だが,信徒と宗教団体の関係,信徒が信仰を続けていくための健全な手続きについては,法律が立ち入ることもある。創価学会の顧問弁護士は学会執行部にこのような忠告はしないのだろうか。

<倫理的問題>
信者が何を信じるかは、個人の自己決定権の核心にかかわることである。教義変更を知らせないことは、信者に「新しい内容を信じるかどうか判断する機会」を奪うことになり、それは信仰の自由の実質的侵害であり,倫理的にきわめて重大な問題と言えよう。教義の変更は、宗教組織における「魂の契約」の改訂に等しいものである。それを十分に説明しないことは、信頼関係を損ない、宗教的誠実さの欠如と評価されても仕方がない。なお,信者が後に教義変更という真実を知ったとき、長年の信仰の基盤が揺らぎ、深刻な信仰的ショック,精神的苦痛を被ることがあれば,これは、近年国際的にも議論されている宗教的虐待(spiritual abuse)の一形態といっても過言ではない。例えば,長年,日蓮大聖人を久遠元初の自受用報身如来と信じ,それを伝える三代会長の多数の書籍を学び,折伏,新聞啓蒙,選挙活動を一生懸命やってきたのに,三代会長の言っていたことは間違いだったのか,これまでの自分の人生は何だったのかという苦痛を被るというような場合である。

宗教は「自らの信念に基づいて何を信じるかを選ぶ自由」に根ざしているものである。宗教団体が根本教義を変更したのに周知しないことは、信者に信仰の選択権を与えないことを意味する。宗教組織は、単に信者を指導するだけでなく、当然のことながら,信頼に基づく説明責任を果たす義務がある。教義が変わった以上、「なぜ変更されたのか」「旧教義との関係はどう整理されたのか」を明確に説明しなければ、倫理的整合性を欠くことになる。

以上のように,教義変更を信者に徹底周知していないことは法的にも倫理的にも極めて重大な問題であると思うが,学会執行部はどこまで認識しているのだろうか。宗祖の意義付と三宝の定義は教義の根幹をなすものであり,それを変更したのであれば,「なぜ」「どこを」「どのような経緯で」変更したのか,「従来の教義との関係をどのように理解すべきか」という点について,会員一人一人が理解納得できるまで指導すべきである。方法はいくらでもある。聖教新聞と大白蓮華に公式の教義変更シリーズを連載する,各地域で講義や講座を開き,かつ小会合での学習会を行う,動画配信で講義するなど,何とでもできるのに,それを行わないのはなぜだろうか。

宗教共同体の健全さは、異なる意見が穏やかに語れる空気があるかどうかで決まると思う。教義変更のような重大事項は、何よりも透明性が求められるのであるから,会員からの疑問や反論に対して,創価学会は謙虚に耳を傾け,相手が納得するまで丁寧に説明すべきである。それとも,『教義要綱』を読まない会員が悪い,勉強不足の会員が怠惰であるとでも言うつもりなのだろうか。知らせる義務と責任を果たさずして「知らない方が悪い」というのであれば,無責任,かつ傲慢この上ない。

『教学要綱』に対して疑問を呈し公開されたものとしては,須田晴夫氏の『創価学会教学要綱と日蓮本仏論の考察』(全234頁,2025年1月23日発刊)『創価学会教学要綱の考察: 仏教史の視点から』(全170頁,2024年8月20日発刊)があり,その前提として『日蓮本仏論の考察: 宮田論文への疑問 』(全125頁,2024年3月26日発刊)がある。須田氏はこれらの書籍だけでなく,2024年9月12日に原田会長あてに『教義要綱』に関する書簡を送り,それは公開されている。

それに対する創価学会からの返答としては,2024年10月18日に聖教新聞に掲載された男子部教学室からの論考がある。彼らが言うには,須田氏は『教学要綱』を誤読していて,「この30年の学会教学の伸展を、そして、それを開いてこられた師匠の戦いを少しも学んでいない」という主張であり,さらに「須田氏の本の内容は氏自身の誤読や無理解、無認識から生じた論拠の乏しい主張に終始しており、その言動も、いまだ得ざるを謂って得たりとなしという増上慢の極みであり、破和合僧の所行と断じざるを得ない。」で締めくくっている。先に須田氏の書籍の全頁を示したが,その量と比べ,男子部教学室の反論はわずか3800文字,文書に通常使用されるフォントは10.5か11.0であるが,そのフォントで数えると,wordでわずか4ページにも満たない。しかも,この男子部教学室による文書は、『教学要綱』が「一大秘法」や「法宝」を本尊から題目に変更したのはなぜか、等の須田氏が著書で説明を求めた内容には一切答えず、ただ「増上慢の極み」「破和合僧の所行」など非難中傷・悪口罵詈を浴びせているだけである。そこには教義の正邪を究明しようとする真摯な態度は微塵もなく、単に須田氏を攻撃して貶めようとする悪意しかない。人格攻撃だけの醜悪な文書を平然と公開して恥じない態度に現在の創価学会執行部の救いがたい実態が表れている。

また創価学会教学部長や会長ではなく,男子部教学室の返答であるというのは,あまりにも須田氏を軽視した態度ではないか。『法華経の智慧』の鼎談者の一人であり,教学部の大先輩である須田氏に対し,若輩の男子部がわずか4ページで答えるというのは,いかにも礼を欠く態度である。なぜ肝心の教学部長は答えないのか,会員は不思議に思わないのだろうか。これは彼らが須田氏を軽く扱っている態度を誇示したいのと同時に,正面切って論戦する自信のなさであると筆者は思う。

それだけではない。2024年10月に墨田区は緊急支部長会を開き,墨田幹部は1時間に渡って須田氏を罵詈雑言することに終始した。その録音データは誰かが秘密裏にYouTubeに公開したが,聞くに堪えない中傷誹謗であり,集団ヒステリーが次第に集団狂気に変っていく様相さえ感じさせるものだった。本人のいないところで,つまり反論の機会を与えない場所で,個人を攻撃するのは集団リンチに等しい。宗教団体にとって最も重要な「教義」について,互いに真理を求めるための対話をするべきであるのに,1対多数で潰しにかかる様相を怖ろしいと感じるのは筆者だけだろうか。

先の疑問に戻る。創価学会はなぜ教義の変更について丁寧な説明をしないのだろうか。理由があるとすれば,以下の2点に絞られると思う。
理由1.教義は彼らにとって大した問題ではない。もっと重要なことがたくさんあり,教義は後回しにしても問題ないと考えている。
理由2.もし教義変更を公式に説明したとしたら,従来の教義で信心をしてきた多くの会員が疑問を持ち,特に教学の知識が豊富な会員から批判が出ると予測している。

理由1について:宗教団体であれば,教義は何よりも優先されるべきである。教義があるから宗教団体は存在する。にも拘わらず,教義変更が会員の大きな話題にならないというのは,第一に,執行部および教学部が説明しようにも説明できる論理がなく,初めから説明しようという意志がない,第二に,教義について多くの会員は関心を持っていないので、説明しなくても問題ないだろうと高をくくり,教義よりも組織の維持や活動を重視しているからだと考えられる。創価学会の活動家はとにかく忙しい。選挙活動,新聞啓蒙,財務の推進など,次々に打ち出される目標の数に追いかけられ,目の前の活動をこなすことで精いっぱいである。執行部もそれをわかっていて,あるいは,あえてそのような状況の中に会員を置き,教義には深い関心を持たせないような体制になっているとも言える。しかし,「教義」よりも「活動」を重視するなら,それは宗教団体ではなく,カルトである。

理由2について:創価学会の中には,かつて僧侶と法論をしたほどの教学力のある会員もいる。また,長年に渡って絶え間なく自己研鑽を積んできた会員も多い。このような人々から見たら,教義を変更すること自体が大問題であり,批判が出るのは当然の成り行きだ。教義を変えた側にしてみれば,おそらく自分たちよりも教学の知識が豊富であろう人々にはなるべく知られたくない。シンプルに言えば「メンドクサイ」会員たちをなるべく刺激したくないのだ。しかし現実には,教義変更は当然,隠し通せるようなものではないので,このような人々が声を上げるたびに,学会は彼らを反逆者,破和合僧と呼んで排除してきた。

教義変更における誠実な説明がないことの問題点と,筆者なりに考えたその理由は以上の通りである。しかし,それ以前にもっと根本的な疑問がある。それは「なぜ,わざわざ教義を変更する必要があったのか」ということである。

男子部教学室の論考や『教学要綱』が主張するところをまとめると,要するに,創価学会が日蓮正宗から「魂の独立」をして30年が経過した,だから世界宗教として発展していくためには日寛教学から独立して,学会独自の教学を構築すべきだということらしい。しかし,そのために宗祖の存在意義を変え,三宝から御本尊と日興上人を削除する必要があるのだろうか。

御本尊は根本尊敬,輪円具足,功徳聚とも名付けられ,信仰者にとっての尊崇の対象である。池田先生は,宇宙の慈悲の法則性の当体が御本尊であると述べられている(『宇宙と仏法を語る』)。どんな宗教にも拝む対象というものはあるが,尊崇の対象である御本尊を削除するのは,あまりにも暴挙であり,これでは宗教とは言えない。新教義では法宝は御本尊ではなく,南無妙法蓮華経だ。しかし,小説『人間革命』第7巻原点の章では,五老僧が題目論はわかったが本尊論がわからなかったとあり,戸田先生は「五老僧は、御本尊のことがわからなかったので、日興上人に叱られたんです」と質問会で述べたとある。そうであるならば,御本尊のことがわからない現在の学会教学部,執行部は五老僧と同じではないか。

そもそも信徒が教義を変更して良いのだろうか。信徒が変更してよいのは布教方法や組織運営だけだ。信徒が教義を創ることが出来るのであれば,それはもはや宗教ではない。それに自らを世界宗教,創価学会仏と名乗ることにも大いに違和感を感じる。創価学会仏については,以前二度に渡って論考した通りであるが,世界宗教たらんとするために,教義を都合よく変えて良いものだろうか。もっと言えば,この新教義で世界宗教になれると本気で思っているのだろうか。

キリストは「私の教えは世界宗教となる」などと言わなかった。目の前にいる病の人を癒し,石で打たれる女の盾になり,貧しき人の心に寄り添い,その人の言葉がやがて世界宗教となった。世界宗教とは,成ろうとして成れるものだとは思えない。まして「神輿を担ぐことは宗教界の王者の振舞い」(聖教新聞2025年5月17日)など,一体どこを押せばこのような愚にもつかない文言が出てくるのかと,宗教界の王者が聞いてあきれる。

1969年の山口大会・島根大会・広島商科大会・下関市立大会合同結成式で,池田先生はインドで仏教が滅びたことについて,「末法万年尽未来際まで滅びない力ある大仏法であるといっても、油断すれば減びてしまう。法は人に依って昌え、人に依って滅びるのです」と指導されている。偉大なる仏法であっても,インドの例のように滅びるということは十分にあるのだ。人の手によって,この偉大な仏法をも滅ぼしてしまうこともあるということを,私たちは知るべきではないかと考える。

【投書】創価学会教義変更における法的倫理的問題” に対して1件のコメントがあります。

  1. カナリア より:

    素晴らしい投稿に共鳴です。根本教義の変更を、会員のほとんどが知らないなどということは、あり得ない事です。
    これを放置する執行部は、あまりにも会員諸氏を軽んじている。会員諸氏は「舐められっぱなし」ではいけませんね。

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