【投書】経本の懸念

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投書者:三笠

教学要綱で僧宝が日興上人でなく創価学会になったということは、ご観念文が
『創価学会に南無し奉り報恩感謝申し上げます』
というとんでもない内容になりそうな気がします。
今の原田学会(私はあえてそう呼ぶ)に随順したら堕地獄まっしぐらのような気がしてなりません。

昨今の公明党の退潮ぶりが最早…
年末の財務も気をつけないと謗法への供養に成り果てるかも…
日蓮大聖人直結の信心を貫く決意で朝夕の勤行唱題に励みます!

【投書】経本の懸念” に対して1件のコメントがあります。

  1. 藤原 玄一 より:

    それは既に、30年前の最初の創価学会版「勤行要典」からあったのです。

    この「勤行要典」を手にした時に抱いた違和感が、
    今の学会の「集団力崇拝」に繋がっていたのか、
    と今となっては思うのです。

    私が違和感を持ったのはここ、四座の広宣流布祈念の項です。
    元、「祈念し奉る一天四海本因妙、広宣流布、大願成就御祈祷の御為に」
    であったのが、
    「広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます」
    となっていました。

    直ぐに思ったのは、
    「広宣流布」という状態と、「創価学会」という教団の存続とが、
    何故、同列に並べられているのか、
    との疑問です。
    これがもし必須事項であるならば、
    宗門と一緒だった時には「日蓮正宗万代の興隆」祈念が
    あるはずなのに、それはなかった。

    それ以来、考えて来た事が、次の点です。

    1.『如説修行抄』の観点から
     「広宣流布」達成を『如説修行抄』の「天下万民諸乗一仏乗」だとすると、
     世の人々の全てが学会員になっているのだから、
     「創価学会万代の興隆」とは、世界人類「万代の興隆」と同義となり、
     その時に敢えて「創価学会」を意識するのは無意味ではないか、
     と考えました。
     
     逆にいえば、「創価学会万代の興隆」を祈念するとは、
     「広宣流布」として「天下万民諸乗一仏乗」は信じていない、
     ということに気が付きました。
     
     
    2.「舎衛の三億」の観点から
     では、「広宣流布」達成を「舎衛の三億」だとすると、
     人口の1/3が学会員、1/3が学会の共感者、1/3がそれ以外、という世界であり、
     そこで「創価学会」を特別視するということです。
     
     学会員であることが、一種のエリートになってしまい兼ねない恐れがあります。
     それは今の中国と同じであり、万人の仏性を謳う仏法の精神に反します。

    3.「広宣流布」に懸ける思い
     「広宣流布」を祈念しているのは学会員であり、
     その学会員が「創価学会万代の興隆」祈念する姿というのは、
     御本尊に対して取引をしている様な有様に映ります。
     
     それは「広宣流布」に懸ける思いとしては、余りに弱々しい。

     「広宣流布記念の日」に若き友に贈る、として池田先生の著された詩
     『青は逢いりも青し』(1988.3.9)にこうあります。

     「使命に生きる幸せと誇りに満ちて
      師と共に生き
      師と共に進む歓びは
      会心の笑みとなる
      家もいらず 名誉もいらず
      財宝もいらず 功徳さえ
      ただひたすらに
      師と共に 尊き大法に
      すべてを捧げ殉じゆくことを願い求める
      清冽にして雄渾なる魂」

     この詩に謳われた
     「功徳さえ」いらぬと言う「清冽にして雄渾なる魂」には、
     比較にもならない姿勢に見えます。

    以上より、
    御観念文の「創価学会万代の興隆」祈念こそは、
    現在の「創価学会仏」という名の「集団力崇拝」への布石であった、
    と私は思っています。

    上記1~3を考えあわせて、私は、
    御観念文から「創価学会万代の興隆」に
    二重線を引いて抹消しました。

  2. 藤原 玄一 より:

    送付したコメントの文中で、
    先生の詩の題名が「文字化け」しておりますので、
    訂正致します。
    誤:『青は逢いりも青し』

    正しくは
    『青は藍よりも青し』
    です。

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