【投書】謗法への供養は如何に

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投書者:負け魂(まけだま)三四郎

立正安国論に曰く、『能忍の以後、経説は則ち其の施を止む』(全集p30)

災難対治抄に曰く、『速に謗法の者を治すべし、若ししからずんば無尽の祈請有りと雖も災難を留むべからざるなり・・施を留めて対治すべしと見えたり』(全集p85)

高橋殿御返事に曰く、『同じ米穀なれども謗法の者を養うは、仏種を断つ。命をついで弥弥強盛の敵人となる』(全集p1467)

教機時国抄に曰く、『法華経を謗ぜん者をば、
正像末の三時に亘りて、持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず。供養せば必ず国に三災七難起こり、供養せし者も必ず無間大城に堕すべきなり』(全集p439)

大聖人様は謗法への供養を厳しく戒めておられます。さらに大聖人門下に対しては、厳格に謗法への考え方をご指導されておられます。

曾谷殿御返事『いかに法華経を信じ給うとも、謗法あらば必ず地獄に堕つべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し。毒気深入・失本心故は是なり』(全集p1056)

阿仏房尼御前御返事『なわて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛えたる水の溜まらざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなわてを固むべきなり・・・相構えて相構えて力あらん程は、謗法をば責めさせ給うべし。日蓮が義を助け給う事、不思議に覚え候ぞ、不思議に覚え候ぞ』(全集p1308)

教学要綱が謗法である以上、教学要綱の誤謬を指摘することは、大聖人様が『日蓮が義を助け給う事、不思議に覚え候ぞ』と千日尼に仰せのように、大聖人様のお心に適っていると推察いたします。教学要綱が撤回されない限り、学会への財務をすることが、大聖人様のお心に適っているのかどうか、今、私たちはお題目をあげて思索することが重要だと感じます。

蛇足ながら私のハンドルネームの「負け魂」は、「負けじ魂」の略で、負けている魂という意味とは対極になりますので、ご理解ください。

【投書】謗法への供養は如何に” に対して1件のコメントがあります。

  1. カナリア より:

    仰せの通りと思います。私は敢えて、執行部と一般会員は分けて考えるようにしていますが、現執行部への供養(財務)は、悪に加担する事になると思っています。何の問題意識も持てない会員諸氏には「事実」を知っていただかねばなりませんね・・

  2. 負け魂(まけだま)三四郎 より:

    ご賛同ありがとうございます。
    先生は法華経の智慧 陀羅尼品の中で、次のようにご指導してくださいました。
    (先生)学会の同志を真心から大切にして、仕えた分だけ広宣流布は進むのです。その熱い心の「かがり火」を消してしまったなら、もはや官僚主義であり、広宣流布の炎は消えてしまう。
    (須田さん)内部にも増上慢の悪人はいると思いますが・・・
    (先生)だからこそ、真の同志と真の同志の連帯をがっちりとつくって、創価学会を守っていただきたい。「戸田の命よりも大切な学会の組織」といわれた創価学会です

    私たちがやるべきことは、先生のご遺言である「真の同志と真の同志の連帯をがっちりとつくって」いくことだと確信いたします

  3. 藤原 玄一 より:

    「施を止む」の適用範囲はどこまで
    とお考えでしょうか。
    新聞を含む聖教新聞社の発行物購入も
    法謗に施をする事になるのでは。

    どう判断するかは、独り一人が、各自、
    「お題目をあげて思索することが重要だ」
    とは思いますが、
    ご自身はどうされたのか、
    お話し頂いたら如何でしょうか。

    それを聞かせて頂いても、
    財務の話は、
    ご引用された御文にもありますとおり、
    また、組織からも度々聞かされて来た事もあり、
    功徳・罰と結びついておりますので、
    結局は、皆さんご自身で、ご思索される筈です。

    因みに、私は、
    12年前に、公布部員を辞退しております。
    その時、同時に、新聞購読も辞めました。
    必要な書物は、全て古書購入しております。

    それから12年経ちますが、
    現在の所、毎日、元気に過ごしております。

    なお、大白だけは、
    学会の動向を知るために、ネット購入しています。
    ただ、
    『曾谷殿御返事』「うるし千ばいに蟹の足一つ」の御文を思うと、
    いずれは、これも辞めたいとは思っています。

  4. 負け魂(まけだま)三四郎 より:

    藤原様
     ご返信に気づくのが今になってしまい、お返事が遅れてしまいましたことをお詫び申し上げます。
     私自身は現執行部が教学要綱を撤回しない限り、現執行部体制での財務はしないつもりです。その分、日本赤十字社や災害時義援金、創価大学への寄付に回します。おっしゃる通り、聖教や大白の購入も布施につながると思っておりますが、会員の皆様の体験や投稿記事は真実と察しますし自身の信心の糧にもなりますし、毎月の大白の先生のご講義の学習会を担当させていただいておりますから、購入はいたしかたないかなあと思っております。また、学会出版物は古本を購入して、印税が学会や聖教に入らないようにしております。私の知り合いが学会の会館建設に何度も携わってきた経験があり、その方が語っておられたことは、会館の備品や資材の購入に関して、学会の職員は値段交渉せずに業者からの高い言い値で購入してくれると語ってました。会員からの財務を大切に使うという先生のお心は皆無でしょうね。高い値段で購入して、業者に聖教推進して職員自身の成果をあげて、組織に報告しているのでしょうか(笑)
    先生とともに広布に戦っていたときには、財務の功徳を本当にたくさんいただきましたので、そのようなときが再来することを祈ってまいります

  5. 藤原 玄一 より:

    ご回答には、不審な点がございますので、
    下記に記します。

    1.現状が不明
     ご自身が、いつから財務を止めたのか、その結果はどうだったのか、
     が良く解りませんので、ご明示頂ければと思います。

     財務に迷っておられる方は「財務を止めると功徳がなくなるのか、罰があたるのか」
     との不安を抱いておられます。
     なので、財務を止めてからの体験を聞くと、少しは不安が和らぐのです。
     それでも、結局は、財務停止には大きな決断が要る、と仰います。

     そういった方々に、我々が出来る事は、財務停止と功徳・罰は無関係だ、
     という体験を語る以外にないのではないでしょうか。

    2.信条との乖離
     そもそも財務は、年末の財務受付期間に出すか止めるか、を決めるものではなく、
     その数ヶ月前に募集される「公布部員」に申込み、晴れて「公布部員」となった人のみに
     財務振込用紙が配布される事になっています。
     つまり、「公布部員」に申込むか、辞退するかで、財務の継続・停止が決まるのです。

     その「公布部員」募集は、担当幹部が、会員宅を一軒一軒回って、意向確認を行います。
     それは、「公布部員辞退します」「はい、そうですか」と決まるものではなく、
     担当幹部が納得しなければ、受け入れて貰える様なものではありません。
     つまり、ここで、「公布部員」辞退を決意した明確な意思表明が必要となるのです。

     すると、「公布部員」辞退の表明と伴に、担当幹部との討論開始となります。
     私の場合は、組織運営のどこが謗法に相当するかをぐうの音も出ぬ程、列挙し、
     『立正安国論』の「施を止む」を理由として、「公布部員」辞退できました。

     これが「財務を止める」という事であり、ここで、不審な点が出てきます。
     他の投稿に記載されてたご自身の信条は、
     [「組織の中で」「天魔から排除されないように」「うまく」振る舞う]
     でしたが、「公布部員」辞退されているとすると、
     上記ご信条に反して、組織から目をつけられる事になります。

     もしかして、「公布部員」となりながら財務振込はしない、という事ですか。

     そうだとすると、それは、倫理破綻ではないでしょうか。

    「ねずみがかわほりになりたるやうに・鳥にもあらずねずみにもあらず
     田舎法師にもあらず京法師にもにず・せう房がやうになりぬとをぼゆ」
     『法門申さるべき様の事』

    3.通力にはよるべからず
     「聖教や大白の」「会員の皆様の体験や投稿記事は真実と察します」
     とありますが、「聖教や大白」に限らず、宗門や他宗、キリスト教各派や新興宗教など
     あらゆる宗教の信仰体験は、皆んな真実です。
     だからと言って、その信仰体験を「自身の信心の糧」になどするのは誤りです。

     「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とには過ぎず、また道理証文よりも現証には過ぎず」
      『三三蔵祈雨事』
     この御文は、現証さえあれば良い、という事ではなく、
     正しい理証・文証には、それに相応しい現証がある、という事であり、
     正しい仏法には、必ず理証・文証・現証の三証が全て揃ってなければならない、
     と大聖人は仰ってられているのです。

     この観点から「聖教や大白」を見るならば、既に正しい理証・文証は失われており、
     現証のみが残されているだけです。
     その残存物としての現証を「信心の証としての功徳」と見做してはなりません。
     理由は、大聖人の御書に明らかです。

    「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。
     魔王・魔民等守護を加へて法に験の有る様なりとも、
     終には其の身も檀那も安穏なるべからず。」
     『諫暁八幡抄』

    「上品の一闡提人になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし。」
     『開目抄』

     特に、次の御文に明らかです。
    「人善根を修すれども、念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば、
     魔王親のおもひをなして、人間につきて其の人をもてなし供養す。
     世間の人に実の僧と思わせんが為なり。」
     『種々御振舞御書』

     つまり、人格も優れ、人柄円満で、幸福に溢れた人であっても、
     『教学要綱』に基いた信仰をし、三代会長の指導に反するならば、
     その人の功徳の施主は、実は、魔王になっているのだ、
     それは魔王が、『教学要綱』信心に功徳がある、と世間の人々に思わせるためだ、
     との大聖人のお言葉です。

     なので、
     「聖教や大白の」「体験や投稿記事は真実と察し」「自身の信心の糧」にする、
     などとは、魔王にまんまと唆された姿と言う外ありません。

     「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」
       『唱法華題目抄』
     を心懸けて頂きたいです。

    4.須田さんはどうしたか
     他のご投稿で、
     「現時点では組織内で大々的に現執行部の謗法を呵責しますと、
      間違いなく、反抗分子として見られ、活動停止や排除の処置をされると推察します。
      実際に私の先輩の中にも複数人、そうなった方々がおられます。
      そうなりますと、先生が法華経の智慧の中で、
      須田さんが先生に『学会の中にも悪の増上慢がいますが…』と問われた際に、
      先生は『だからこそ、学会の中で善の連帯を築いていっていただきたい』
      とおっしゃいましたことをできなくなってしまいます。
      今は組織の中で、
      大謗法の連中たちの誤謬にだまされない、惑わされない善の連帯を築く時期であると定めて、
      「うまく」やっていこうと思っております。」
     と言われてますが、
     では、池田先生と直接、上記の対話をされた須田さんは、どう行動されたか、
     この点を、もう一度、よく考えてみて下さい。

     須田さんは、学会から『教学要綱』が発刊された半年後に、
     「『創価学会教学要綱』の考察」を出版し、
     続けて「『教学要綱』撤回要望書簡」を会長宛に送られました。

     要するに「組織内で大々的に現執行部の謗法を呵責し」たのです。
     そして、学会本部から「反抗分子として見られ、活動停止や排除の処置をされ」ました。

     先生から直接『学会の中で善の連帯を築いていっていただきたい』と言われた人の行動が
     これだったのです。

     須田さんは、墨田区の総合副区長でしたから、その立場を利用すれば、
     [「組織の中で」「天魔から排除されないように」「うまく」振る舞う]
     こともできた筈でしたが、敢えてそうされなかった。

     何故か。それは、
     [「組織の中で」「天魔から排除されないように」「うまく」振る舞う]
     では、『善の連帯を築』く事にはならない、
     と判断されたからだと思います。

     つまり、本当に『善の連帯を築』く行動をしているのは、
     須田さんと同様の行動をとられた貴方の複数人の先輩方だと思います。

     「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ
      教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
       『崇峻天皇御書』

     不軽菩薩の様に行動するとは、
     「反抗分子として見られ、活動停止や排除の処置をされ」ると解っていても、
     自分の立場をはっきり表明する事だと思います。
     御文の「人の振舞」とは「倫理的に正しくあれ」との仰せなのです。
     その証拠に『崇峻天皇御書』は、こう結ばれています。

     「賢きを人と云いはかなきを畜といふ。」

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