【投書】摩訶・私感「自活座談会・緊急企画について」

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投書者:鬼滅の言こと藤野卓也

サイトスタッフの皆様・座談会運営の皆様へ
座談会の企画、サイトの運営、ありがとうございます。

11月度の自活座談会も参加させていただきました。
その中でひとつ、私見とはなりますが、緊急企画についての意見を述べさせていただきます。

座談会資料(緊急企画)
①南無妙法蓮華経という「根本の法」なるものが、もともと宇宙のどこかにあって大聖人が出現する前から存在していた。
②太古から存在していた南無妙法蓮華経なる根本の法を釈尊や大聖人が悟って仏になった。

南無妙法蓮華経という「根本の法」なるものが、もともと宇宙のどこかにある!と私は思っています。
その根拠となるのが当体義抄です。

「此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」
(当体義抄・御書p.513)

因果倶時・不思議の一法(法則)の名前が妙法蓮華であると説かれています。

南無妙法蓮華経という因果倶時・不思議の一法、つまり「根本の法」が、もともと存在しなくてはなりません。

池田先生
『要するに、無始無終の仏を説くためには、「仏因(囚行)」に「仏果(果徳)」を認めなくではならないのです。これが、三世常住の本仏を示すうえでの第二の道であり、「唯一の道」です。』
『この「因位(仏因の位)の仏」──それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。』(法華経の智慧)

池田先生は「因果倶時・不思議の一法之れ有り」を踏まえて説明されていると、私は思います。

「若無始無終の由を云て・いみじき由を立て申さば必大日如来に限らず我等・一切衆生・螻蟻蟁蝱等に至るまでみな無始無終の色心なり、衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見なり汝外道に同ず如何と云う可きなり。」
(諸宗問答抄・御書p.382)

日蓮大聖人は大日如来(法性)の若無始無終を批判され、私達の生命そのものが無始無終であると説かれています。つまり、十界の生命そのものが無始無終であるということです。
とするならば、久遠元初自受用報身如来の生命も無始無終ということになります。

「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」
(秋元御書・御書p.1,072)

釈尊及び、三世十方の仏は「妙法蓮華経の五字を種として」、悟って仏になったと捉えることができます。
では、日蓮大聖人はどうか?

「仏は熟脱の教主・某は下種の法主なり」
(本因妙抄・御書p.874)
「本因妙の教主・本門の大師・日蓮謹んで之を結要す」
(百六箇抄・御書p.854)

「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」
(観心本尊抄・御書p.249)

「されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり」
(御義口伝巻上・御書p.751)

南無妙法蓮華経を所持されているのが日蓮大聖人であり、久遠元初自受用報身如来のご生命です。
本因妙の教主であり、下種の法主です。
その意味から、南無妙法蓮華経・如来。南無妙法蓮華経・日蓮。その姿が人法一箇であると思います。

以上が、私の私見です。故に「根本の法」はなくてはならないと思うのです。

教学要綱及び男子部の論文につきましては、教義以前の問題として、牧口先生・戸田先生・池田先生は教学要綱にあるような教学を説かれたことは全くありません。あるのであれば証拠を出していただきたい!また、軍部権力と戦われ、命がけで広宣流布に戦われた戸田先生!「教学は日寛上人の時代に還れ」との叫びを男子部・教学室のメンバーは無視するのでしょうか!

得一大徳天台智者大師を罵詈して曰く「智公汝は是れ誰が弟子ぞ三寸に足らざる舌根を以て覆面舌の所説の教時を謗ず」
(法華行者逢難事・御書p.966)

男子部・教学室。須田氏をを批判して曰く「須田氏・汝は是れ誰が弟子ぞ三寸に足らざる舌根を以て創価学会・教学要綱を謗ず」

正義は時代が証明してくれます。

【投書】摩訶・私感「自活座談会・緊急企画について」” に対して1件のコメントがあります。

  1. 道弘方四 より:

    「南無妙法蓮華経・如来。南無妙法蓮華経・日蓮。その姿が人法一箇であると思います。」との御意見ですが、私はこの御指摘の様に「法・仏」という構成では理解していないものです。
    “南無妙法蓮華経如来”=日蓮大聖人であり、“南無妙法蓮華経”は、仏の説く法であると同時に、その仏の名前でもあるというのが私の理解です。
    無始無終、常住ということは、法と仏がともに在るということだと思います。
    先行する根源の法(南無妙法蓮華経)があって、その法の存在に気付いて、その法を修行して成仏した仏が、その法に南無妙法蓮華経という名付けたのではなく、南無妙法蓮華経如来が南無妙法蓮華経という法とともに存在しており、それを体現し示されたのが日蓮大聖人様であり曼荼羅本尊だと考えています。
    以上が私の私見です。

  2. 1979 より:

    藤野様
    ご投稿拝見させて頂きました。
    「南無妙法蓮華経という「根本の法」なるものが、もともと宇宙のどこかにある!」との事ですが、これではもともと存在する法をどこかの時点で仏が覚知するということで、その仏は無始無終の仏身ではないということになるのではないでしょうか?
    そもそも、根本の法と根本仏(久遠元初自受用身)とは一体不離であって、法即人、人即法の人法一箇が日蓮仏法の極説であると思います。

    「根本の法」が無いと言っているわけではありません。その「法」とは三身具足の「法」のことであって、即ち仏身です。単なる「法身」のみのが事前に存在するというのは間違いだと思います。
    藤野様が引用されている「法華経の智慧」の前段部分に、
    『池田 釈尊は五百塵点劫の太古に成仏したと説いた。これは、全宇宙のすべての仏は、その久遠実成の釈尊の弟子だということです。それでは、「その前」はどうだったのか。
     斉藤 「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。
     池田 すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。
     須田 たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。』
    とある通りではないかと。

    藤野様ご自身も「無始無終の仏」をお認めになっていると思いますので、それ以前に法があったと考えるのは自己矛盾になるのではないでしょうか。

  3. 藤野です より:

    コメントありがとうございます。

    私の私見を要約します。

    ①法つまり法則はもともと存在しますので、言いかえれば無始無終です。

    ②諸宗問答抄には「一切衆生・螻蟻蟁蝱等に至るまでみな無始無終の色心なり」と説かれています。この御文を根拠に、十界の生命、なかんずく仏の生命(久遠元初自受用報身如来)が無始無終であると捉えました。

    ③仏は無始無終であり、法も無始無終です。ただし「無始無終の仏」の前に法はあったと私は捉えている訳ではありません。

    ④御義口伝には「此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり」と説かれています。久遠元初自受用報身如来・日蓮大聖人が所持されている法が南無妙法蓮華経です。
     (無始無終の仏と、無始無終の法です)

    現在の私の教学力で考えられるのは私見となりますが、ここまでです。
    よろしくお願いします。

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