南無妙法蓮華経は単なる「法」ではなく「仏身」である!

創価学会発行のスットコドッコイな「教学要綱」を、正論を以て徹底批判した須田論考に対し、稚拙(ちせつ)な反論が発表されました。
今回は現創価学会の教学理解がいかに未熟であるか、また、そのお粗末の根本にある錯誤(さくご)は何かを解説します。

学会側の反論の中で根本的に〝思い違い〟をしているところがあります。しかもこの〝思い違い〟が現学会教学の根っこにあり、それを根本としてすべての論が展開されていますからすべてが間違っているのです。

では彼らが何を言っているのか見てみましょう。
教学室論考では冒頭に一つの結論を示しています。それは、

「氏は、日蓮大聖人は釈尊を超越した根源仏であると主張するが、これは宗門教学そのものであり、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない(中略)

釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない。」(教学室論考)

というものです。一見もっともらしく見えるこの文の中に、実はすべての間違いが詰まっています。みなさん、何だと思いますか?

この文をよく読むと、次のことがハッキリしています。

①南無妙法蓮華経という「根本の法」なるものが、もともと宇宙のどこかにあって大聖人が出現する前から存在していた。
②太古から存在していた南無妙法蓮華経なる根本の法を釈尊や大聖人が悟って仏になった。

ということ(理屈)になります。

しかし、これでは「法」はあったが「仏」は存在しなかった時があることになりませんか? また、この考えでは「永遠常住の仏」や、「無始無終の仏」は存在しないことになります。それでいいのでしょうか?

大聖人は観心本尊抄で「無始の古仏」があることを明言されています。「無始の古仏」とは「永遠の仏」「根源の仏」「無作の仏」という意味です。しかし現学会は、「根本の法」はあっても〝「無始の仏」(根本の仏)なんていない〟と主張しているのです。こうした発想は、実は、南無妙法蓮華経を単なる「法」だと思い込んでいることから起こる大きな誤解なのです。

これは「南無妙法蓮華経」が元より仏身(如来・生命)であることを知らない為の邪見です。妙法の理は天地の間にあったとしてもそれはどこまでも「理性(りしょう)」であって、観念論に過ぎません。実際には仏の「智慧」のうちにのみ厳然として具わっているのであり、教学的に丁寧に言えば、法報応(ほっぽうおう)三身具足の当体の報(ほう)身(しん)中(ちゅう)に具しているのです。これが本有(ほんぬ)常住(じょうじゅう)の南無妙法蓮華経です。

わたしがごちゃごちゃ述べるより、池田先生の指導を見てみましょう。

【以下、「法華経の智慧」より主論部抜粋】
池田 釈尊は五百塵点劫の太古に成仏したと説いた。これは、全宇宙のすべての仏は、その久遠実成の釈尊の弟子だということです。それでは、「その前」はどうだったのか。

斉藤 「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。

池田 すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。

須田 たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。

遠藤 始成正覚の釈尊は「本無今有〔本無くして今有り)」と破折されました。″根無し草″のようなものだと。
しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。厳しく言えば「本無今有」であって「本有」ではありません。

斉藤 「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。

池田 「宇宙と一体の無始無終の根本仏」を説くためには、二つの方法しかない。
一つは、因果を無視することです。因とか果とか言わなければ、単に「無始無終の仏」と言っておけばすむ。因果を言うから、「仏果を得る前」が問題になるのだから。
しかし、因果を無視したのでは仏法ではなくなってしまう.因果を説くからこそ仏法なのであって、因果を無視すれば外道です。なかんずく「仏因」「仏果」が、仏法のメーンテーマです。
「仏因」が先にあって、「仏果」が後に来るというのでは、どうしても、〝何らかの時点で〟仏が出現することになる。
要するに、無始無終の仏を説くためには、「仏因(囚行)」に「仏果(果徳)」を認め なくではならないのです。これが、三世常住の本仏を示すうえでの第二の道であり、「唯一の道」です。

斉藤 理論的には、どうしてもそうなります。

池田 この「因位(仏因の位)の仏」──それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。上行菩薩の出現は、五百塵点劫という想像もつかない過去をも突破した「無始 無終の久遠の本仏」を指し示しているのです。

須田 この「無始無終の本仏」とは、私たちが「久遠元初の自受用報身如来」と呼んでいる「南無妙法蓮華経如来」のことですね。

池田 もちろん、その通りです。

須田 そうしますと、この「久遠元初」というのは、もはや「はるかな昔」という意味ではありませんね。時間の枠を突破しているというか、もう「時間の概念」ではないということになります。

池田 そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。
時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実──無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。(法華経の智慧 第五巻 207㌻

更に明言を拾えば、

池田 南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。「法」といっても「人(仏)」を離れた法は、「理」だけの存在です。実際には──「事」の上では──仏の智慧を離れた法というのはないのです。久遠元初の仏──無始無終の常住の仏は、宇宙生命そのものであり、一瞬の停滞もなく、常に不断に、一切衆生を救おうと活動しておられる。            (法華経の智慧 第四巻 80㌻)

 

どうです? 先生は実に明快でしょ! 繰り返しますが、ここで重要なのは南無妙法蓮華経が単なる「法」ではなくて仏身(如来・生命)であるということです。現学会教学部やエセ学者たちの最大の誤りは、「法」なるものが単独で存在し、「仏」の有無にかかわらず宇宙のどこかに存在していると思い込んでいることです。だから、

「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ」(教義改定)とか、
「釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない」(教学室論考)
などと平気で強弁するのです。これは全く逆です。無始無終の仏の生命(無始の古仏)が自身に本有常住していることを覚知した人(即ち本仏)がその生命を南無妙法蓮華経と名付けたのです。名付けたばかりではない――それはその生命(如来)の宝号であると同時に「体(たい)」であり「宗(しゅう)」であり「用(ゆう)」であり「教(きょう)」であり、即ち仏身そのものなのです。その体理は妙法五字ですが、「宗(しゅう)・用(ゆう)・教(きょう)」、またその化(け)益(やく)(化導と功益)において「本因と本果」、「種と脱」に分かれるのです。また、そこに自ずと勝劣・優劣が分かれるのは当然なのです。

大聖人も次のように言われています、
「今、大日経並びに諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり。三身の無始無終に非ず」(法華真言勝劣事―新版783㌻ 全集125㌻)と。
つまり大日経やその他の大乗経でも「法」(法身)の無始無終は説いているが、三身(仏身)の無始無終は説いていないと。また開目抄には、「諸大乗経に法身の無始無終は説けども、応身・報身の顕本はとかれず」(新版67㌻ 全集198㌻)と。いくら「根本の法」や「宇宙の理性」を説いても「仏身」の伴わないものはダメですよ! と仰っているのです。

例えば「発迹顕本」といいますが、釈尊の「顕本」と大聖人の「顕本」は同じですか? 違いますよね。釈迦・日蓮それぞれの「顕本」の「本」の違いこそ、その勝劣を分かつ根本なのです。これが法門というものです。だからこそ、その「仏身」の当体である御本尊をもって「一大秘法」とし、その御本尊に唱える題目を「本門の題目」とするのです。本尊なくして題目も戒壇もないのです。
ですから、「「宇宙根本の法を具現化した」とか、「根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し」(教学室論考)とかいうのは、いわば「理」を事相に表現したに過ぎませんから、どこまでいっても「理」です。日寛上人は「当門は事を事に顕すのである」と明言されています。「事」とは「仏身」のことです。

このように現学会では「法理」を根本にするから「一大秘法」を「題目」にして「人法一箇の御本尊」を「一大秘法」から格下げしてしまったのです。これは身延の考え方と同じです。

例えば、日蓮宗系他門徒が御本尊の首題の直下に筆者自身の名を記したりするのは、現学会と同じ題目至上主義だからである。なるほど釈迦や日蓮が「根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下、勝劣はない」(教学室論考)のであれば、同じように題目を唱え信じ成仏した者は誰でも自身の名を記しても不都合はないことになります。「いや、それはまずい」というのであれば、宗祖以降誰一人としてその「根本の南無妙法蓮華経」によって成仏した者はいないということになります。実際単法(理性)としての「題目」を「所縁の境」として成仏したものは皆無でしょう。「南無妙法蓮華経 日蓮」(人法一箇・御本尊)を「境」として智妙の題目を唱えるから境智冥合するのです。

この誤った学会の考え方を「法先仏後」論といいますが、この考え方を解消しないかぎり、すべて間違ってきます。なぜなら最初が間違っているのですから結果はすべて間違いです。

最後に、もう一度池田先生の結論を紹介して終わりにします。
「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の根本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙生命そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。その十界のうちの「仏界」を、法華経では「久遠実成の釈尊」と「多宝如来」として説き、南無妙法蓮華経如来の「九界」を「上行菩薩」等として説いたのです。同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。(【法華経の智慧】第五巻195㌻)

この池田先生のご指導を、私たちは絶対に忘れてはいけない。このご指導さえ忘れなければ絶対に大丈夫です。ここを間違えるとすべて間違います。これが本日の結論です。

以上で終わります。ありがとうございました。