創価学会の変貌に関する一考察
― 対‶権力″の視点から ―
池田先生が、2010年から13年間、公の場に姿を見せられないまま、昨年11月15日に亡くなられました。早いもので1年になります。
創価学会は11月18日に94回目の創立記念日を迎えます。
「人類の幸福と平和のために、日蓮大聖人が示した広宣流布と立正安国を指標に実践をする」と掲げ、会員は、信心根本に人間革命に励み一家和楽を築くとともに、地域の宗教的慣習と軋轢(あつれき)を生みながらも、地域に貢献することで、地域広布が進んできたことはご承知のところです。一方、立正安国の精神から政治に進出したことで、既得権益をもつ政治家・団体から恐れられ、圧力を受けながらも戦ってきました。ただ私が思うに、近年の創価学会は、かつての三代の会長の精神が漲(みなぎ)る創価学会とは違うと感じています。創立の月にあたり、歴史を振り返り、何が違うのか、考えてみました。
1,創価学会は「反権力」の運動体だった
〈昭和5年11月18日 創価教育学会創立〉
創立者牧口常三郎先生のことからお話ししたいと思います。
教育者の牧口先生は、教育は国家のためではなく、人が自分の力で幸せになるためにあると考えていました。貧しい家庭の子どもは労働力として扱われ、女性は男性以上に学ぶ場もありませんでした。貧しいうえに、差別意識のあるそんな時代に、子どもに学ぶ大切さを教え、女性に通信教育などの機会をつくりました。
誰に対しても、分け隔てなく、特別扱いしない牧口先生は、大正小学校の校長の時に、理不尽な迫害を受けたことがあります。それは、自分の子どもを級長にしないという地元の実力者に同調した教師が、東京市議会議員に働きかけ、牧口先生が排斥されるというものでした。
この時、牧口先生を慕う父母や児童、教員たちが反発し、留任を区長・市長・府知事に陳情しますが、阻止できませんでした。
牧口先生が権力者に同調しなかったように、牧口先生を慕う人たちが権力者に抗ったことを牧口先生は、「為政者の圧政政治に反抗した民衆運動である」と記しています。
牧口先生の入信は、昭和3年、57歳の頃、白金尋常小学校の校長の時でした。
日蓮正宗の信者で目白商業学校の校長の三谷素啓との出会いがきっかけだったようです。その後、戸田先生も入信しています。
牧口先生は、入信の心境を次のように綴っています。
大決心をもって、いよいよ信仰に入ってみると、『天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか』(御書254㌻)天が晴れるならば、地はおのずから明らかとなる。法華経を識る者は、世法もおのずから明らかに識ることができる)との、日蓮大聖人の仰せが、私の生活中に、なるほどとうなずかれることとなり、言語に絶する歓喜をもって、ほとんど六十年の生活法を一新するに至った」「(信仰に入ってみると)暗中模索の不安が一掃され、生来の引込思案がなくなり、生活目的がいよいよ遠大となり、畏れることが少なくなり」と。
こうして入信した牧口先生は、昭和5年11月18日、創価教育学説の完成と普及のため創価教育学会を創立します。昭和16年11月2日に開催された創価教育学会第3回総会では、2千名の陣容にまでなっています。同年12月8日、太平洋戦争が開戦すると、国は国民に国家神道を強要します。創価教育学会にもその手が及び、牧口先生は、不敬罪、治安維持法違反でとらえられます。しかし、牢獄に繋がれても屈することなく抗い、昭和19年11月18日に獄死しています。一方、日蓮正宗は、神札受諾を決め、不敬罪が適用されることを恐れ「御観念文の改変」や「御書全集の発刊禁止」をするなど、国家の弾圧に屈してしまいます。また、牧口先生と共に捕らえられた弟子たちも、戸田先生以外は権力に屈しています。こうして、創価教育学会は壊滅状態となります。
〈創価学会の再建〉
生きて出獄した戸田先生は、国家権力と戦うことを牧口先生に誓い、民衆の幸せのために、創価学会を再建します。
昭和26年5月3日、創価学会第二代会長となり、折伏戦で大きく拡大をしますが、そこには、乗り越えなければならない多くの問題が勃発(ぼっぱつ)します。
その一つが北海道の夕張炭労問題です。北海道の炭労の中で最大であった夕張炭労は、政治にも大きな影響力を持ち、当時の夕張市長も、市議の大半も北海道炭労の出身でした。
昭和31年の参議院選挙で、全国区で学会推薦の候補が票を得て当選したことで、炭労が推薦していた候補が票を減らしたと危機感を覚え、学会が組合の統制を乱すとして、全国大会では「新興宗教団体への対策」を決め、北海道炭労は「創価学会対策委員会」を発足、夕張炭労では学会員を組合から締め出そうとしました。それは即解雇となる事を意味していました。
こうした事態を受け、当時、青年部の室長だった池田先生は、信教の自由を勝ち取るために「泣く子と炭労には勝てない」とまで言われた炭労に対し、一歩も引かずに糾弾(きゅうだん)し、解決へと導いています。
このような難を乗り越えながら創価学会は75万世帯へと拡大します。
昭和32年9月8日、戸田先生は、横浜三ツ沢競技場で「原水爆禁止宣言」を遺訓として示し、民衆の幸せと世界平和の後事を池田先生をはじめとする戸田門下生に託し、昭和33年4月2日に58歳の生涯を終えます。
牧口先生も戸田先生も、民衆を苦しめる権力に屈することなく、宗教的信念を貫き通して一生を終えています。
〈第三代会長就任〉
昭和35年5月3日、第三代会長に就任した池田先生は、10月2日から当時世界に広がり始めていた学会員の激励のために、北・南米を訪問しています。
昭和43年9月8日、第11回学生部総会で、「日中国交正常化提言」を発表したことで、中国との国交回復に向けた大きな動きとなり、昭和47年に日中国交正常化が実現しています。
戸田先生の遺言である「原水爆禁止」を宣揚するための世界平和の戦いは、昭和47年の歴史学者のトインビー対談をきっかけに、世界の有識者との対談へ拡大させていきます。
冷戦期の中ソ間の緊張による戦争を懸念し、昭和49年9月、ソ連・コスイギン首相と会見、中国へ攻めるつもりのないことを聞くと、12月には中国を訪問、かねてより池田先生との会見を望んでいた周恩来にその言葉を伝えます。周総理は、日中友好の未来を池田先生に託されます。
世界平和への戦いは、「核廃絶1000万署名運動」や核兵器全廃条約の締結を求める署名運動「アボリション2000」として推し進められます。
昭和58年からは、毎年1月26日「SGIの日」に、SGI記念提言として、平和提言を発表してきました。
この世界平和の戦いの一方、国内においては、公明党による政治改革を進めますが、政治権力は飛躍的な拡大をする創価学会を権力に取り込もうとします。しかし、池田先生は政治権力に屈することなく対峙(たいじ)しています。
その様子が分かる講演がありますので、紹介したいと思います。
■昭和36年7月度 男子部幹部会の講演
「昨年の、ちょうど6月のことなのです。アメリカの何とかという大統領(アイゼンハワー)が日本の国に来るということで、日本中が騒然としたことがあります。その時にある保守系の偉い人から連絡があって、〝他の教団の人々が皆、その大統領を迎えてくれることになったから、創価学会の方でも迎えていただけないでしょうか。創価学会の青年部は、もっとも統制がとれて勇敢のように聞いておりますから、宮城広場のいちばん良い所をとっておきました″と、このような話があったのです。
私は、その返事にいわく〝なにを言いますか!学会をバカにするにもほどがある!だれが権力の命令で、わが創価学会が動く必要がない。私どもは、日蓮大聖人のご命令だけで動くのである!″と言ったのです。〈中略〉いずれにせよ私は、皆さん方をだましたり政治の道具に使っていくようなことは絶対にいたしませんし、あくまでも政策に対し、政党支持に対しては皆さん方の自由であります。」
このように明確にお話しをされています。
2,権力の応酬
〈昭和54年4月24日 第三代会長辞任〉
ところが、権力の魔性は意外なところから牙をむいてきました。飛躍的に拡大する創価学会に外護された日蓮正宗も発展しますが、戦時中に宗教弾圧に屈した日蓮正宗の残党は、その発展にあぐらをかき、次第に宗教的権威を主張し始め、信徒を見下す体質に侵(おか)されていきます。やがて世界平和のために戦い、信徒の衆望を集める池田先生に嫉妬(しっと)し、ついにその宗教的権威をもって中心者である池田会長の排除を画策しました。
それに屈した創価学会の最高幹部たちは、三代会長を辞任に追い込んでしまいます。
その内容は、随筆・人間革命「嵐の4・24」に明確に書き残されています。
戦後の学会再建以来、一部の最高幹部たちによる宗教的権力に屈した最初の事件となりました。
しかし、名誉会長となった池田先生は、精神的指導を中心に後継の育成に努め、学会としての本義、本質を失うことなく会員を護り、牽引(けんいん)されました。
その肝(きも)となったのは、職員幹部の質の向上でした。その中には、戸田先生の指導を遺言ととらえ、教えて下さったものがあります。
■2006年2月25日 方面長会でのスピーチ
「幹部だ。幹部で決まる。指導者が自分を変えるしかない」
権力を持つと、人間は魔性に毒される。魚も頭から腐る。組織も、ダメになるのは「上」からだ。幹部は、つねにつねに「慢心」を排し、自身を変革していくしかない。
大聖人は、厳格に戒めておられる。「わが一門の中でも、信心を貫き通せない人々は、(初めから信じないよりも)かえって罪があるのです。(地獄に堕ちて、その時)日蓮をうらんではなりませんよ。少輔房、能登房ら(退転した門下の末路)を、よくごらんなさい」(御書1168㌻、通解)と。
幹部でありながら、信心を失い退転する。学会に反逆する。これ以上の哀れな末路はない。だからこそ、威張って同志を苦しめる幹部、学会利用の堕落した幹部が現れたならば、厳しく責めぬいていくことだ。それが慈悲である。
戸田先生は、「臆病者は大聖人の弟子たる資格はない」と叱咤(しった)された。たとえ相手が上位の幹部であっても、下から上へ言っていくのである。婦人部、女子部の皆さんも、悪に対しては、断固として、正義の声をあげ、糾弾(きゅうだん)していただきたい。
このようにご指導して下さっています。
〈第二次宗門問題〉
第一次宗門問題より10年、1990年12月28日、日蓮正宗は突如として池田先生の総講頭罷免を発表、宗門問題が再燃します。第二次宗門問題です。
最初は、創価学会に対する「お尋ね」と称する質問状から始まりますが、根拠のない証拠を元にした質問状だということが判明しますが、宗門はそれを無視し、海外布教の廃止や本尊下付の停止、末寺主導の添書登山しか認めない登山会などを一方的に打ち出してきました。更には、1991年11月28日に、創価学会を破門し日蓮正宗とは無関係の団体であると書かれた「破門通告書」が送られてきました。創価学会では、この日を「魂の独立記念日」として歴史に刻んでいます。
「創価学会分離作戦」、いわゆるC作戦という、日顕が主導した創価学会切り崩しの陰謀だということが露見しています。
第二次宗門問題の本質は、学会員から尊敬される池田先生に対する日顕の嫉妬と、僧侶が上、信徒が下という差別意識が根強い宗門にとって、信徒を自由に支配するためには、池田先生が邪魔な存在だったということだと思います。
しかし、創価学会は、池田先生を中心に、「平成の宗教改革」と位置づけ、僧侶主導の葬式から、在家信徒が導師を担う友人葬とするなど、葬式仏教と決別してきました。
このように二度の宗門問題を経ながらも、池田先生の力強い指導を得て、創価学会は権威・権力に屈しない、その体質を変えることはありませんでした。
3,政治権力との対峙
〈公明党が初の政権党〉
その後、政治でも国政において大きな変化がありました。
1993年7月、衆議院において自民党が単独過半数を割り、日本新党、新党さきがけ、公明党、社会党、民主党などの会派で非自民の8党連立の細川政権が誕生します。
こうして公明党は政権の一角を担うようになると、自民党は、こともあろうに支持団体である創価学会に圧力をかけます。
1994年5月、自民党は反創価学会の宗教団体や有識者に呼びかけ、「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」を発足します。いわゆる「四月会」です。「創価学会に死を」という意味を込めて「死学会」と認識されていたともいわれています。
顧問に藤原弘達はじめ3名が就任し、代表幹事に評論家の俵孝太郎、常任幹事に団体として神道政治連盟(神社本庁)や立正佼成会平和研究所などが就き、個人としては、内藤国夫(ライター)、西部邁(評論家)、黛敏郎(作曲家)などが名を連ねています。
同年6月、自民・社会・新党さきがけの三党連立の村山内閣が発足します。
翌年、1995年3月、オーム真理教の地下鉄サリン事件が起こると、宗教団体による犯罪を未然に防ぐことを目的に、宗教法人法の改正が検討され、12月に施行されています。
この宗教法人法が検討されている最中の7月、参議院で新進党が議席を拡大したことで、政権党の一角を担う公明党と創価学会を政教一致であるとの攻撃が始まり、池田名誉会長の参考人招致を要求されます。この時は与野党協議の攻防の末、参考人として秋谷会長ほか6人が招致されています。結果として政教一致でないことが明確になりました。
4,権力の誘惑
〈自民党との連立〉
1996年10月の衆議院選挙で自民党は過半数にわずかに届かなかったものの復調し、その後、社会・新党さきがけが閣外協力となったため、連立相手を公明党にするために、それまでの攻撃を反故(ほご)し、創価学会からの厳重抗議を全面的に受け入れています。
この時、橋本龍太郎総裁は、創価学会本部に対して電話で謝罪したようです。
こうして1999年10月5日、自民・自由・公明3党の自自公連立の第2次小渕内閣として発足し、小渕、森、小泉、安倍、福田そして2009年9月に麻生政権が下野するまで続きます。(連立の枠組みは、自自公→自公保→自公となる)
その後、民主党政権が3年余りで終わりを告げ、2012年12月に第2次安倍内閣が発足してから、再び自民党と連立を組んでいます。
■2018年4月15日 友岡雅也 談(本体随行チーム、先生付きの記者)
1999年10月、第一次自公連立政権に向かう模索(もさく)があった。さかのぼると、まず宗教法人法の改正(※村山内閣、1995年12月公布)で学会がゆすられた。自民党に頭下げて止めさせた。で、自民党に借りを作った。当時、橋本龍太郎が四月会の件で学会に謝ってきたというのは表面上のことで、実は学会が自民党の集票マシーンになるのを条件に追及を止めさせた。それで自公連立が成立した。
2003年、イラク戦争が始まった。アフガンへの攻撃が始まった。で、自衛隊を行かせるかどうかの議論になった。あの時に、学会の中も二つに分かれた。自公連立を選ぶ意見と、それを反対する意見があった。その時から、創価学会は、公明党ではなく創価学会内で自民党の主流派とつながっている人が、学会の中で発言力を持つようになった。こういう構図になってしまった。代表的なのは佐藤浩です。
その頃、先生は、極東諸国の友好関係を築こうとされていた。対中国には日中友好を進める中、第二次大戦で日本が行った筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい蛮行(ばんこう)を詫(わ)び、対朝鮮半島には文化の大恩人として兄の国と評(ひょう)していた。しかしこれは自民党としては認められないことで、自民党から当時の連立推進派の学会幹部に「池田大作を黙らせろ!」との条件提示がなされた。このとんでもないと思われる条件が、実は、学会執行部にとっては簡単な条件だった。
それは、先生自身を黙らせるんではなくて、先生のスピーチチームを、執行部の息のかかった者に交代させればよかった。で、どうしたか。それまでは先ほど言ったように、スピーチはまず先生からのご指示があり、本校正があり、我々が用意し、海外の講演も含め細かいチェックが入り、という風にやっていた。 ところがこのスピーチチームが交代させられた。
(※本隊の韓国訪問の前に、兵頭さんが意見書を提出し、本隊が許可して「韓日友好」の見出しに。これも今では、「日韓友好」に変わっている)
〈秋谷会長の更迭〉
この間、創価学会も大きく変わりました。
自公連立が進む中、池田先生は矢野問題を材料に秋谷会長を更迭し、いよいよ54年問題の真実を語り始めます。
これは、連立政権を危惧されていた先生が、権力にすり寄ろうとする動きを遮断するためだったと思われます。しかし、すでに連立による旨みを感じていた執行部は、先生に呼応することなく連立保守の道を突き進みます。
こうした中、池田先生が病に倒れられ、2010年4月の本部幹部会を最後に公の場に姿を見せられなくなりました。
それを機に、執行部は、ますます政治権力に迎合していく事になります。
2013年11月8日の大誓堂建立を契機として、「創価学会会則・教義条項」を大幅に改正して、自分たちの都合のいい体制づくりを画策します。この時は、教学部の遠藤総合教学部長を中心とする教学部の抵抗にあい、一時断念しますが、その後、邪魔な教学部長や室員を学会本部から追い出し、画策実現への体制を整えます。
2014年11月8日「創価学会会則・教義条項」の改正を発表、2015年、会則と辻褄(つじつま)を合わせるように、創価学会「勤行要点」を制定、正木理事長を更迭して、高齢の長谷川氏を理事長に就任させました。2017年に「創価学会会憲」を制定し、都合のいい体制を固め、政治権力を離さないために、安保法制の解釈を変え、憲法9条の改正までしようとしています。ついには、創価学会は権力に屈し宗教的信念を失い、政治重視の保身団体に変貌しています。
2023年、池田先生がお亡くなりになるのと同時に、新たな教義要綱を制定して、創価ルネサンスの集大成と称し、三代会長時代とは似ても似つかぬ歪(ゆが)んだ新・創価学会を完成させてしまいました。
〈補 足〉
憲法解釈改変
2014年7月1日の集団的自衛権の行使を容認する閣議決定が最たるものだと私は思っています。この時、「安全保障関連法に反対する創価大学・創価女子短期大学関係者 有志の会」が結成されたことで、創価大学関係者が解雇されたことも記憶に新しいと思います。
創価学会が提灯奉納
2018年、仏教タイムスに、〝靖国神社に「創価学会」名の提灯が奉納″との記事が報じられました。当時、ツイッターなどでも拡散されていたのでご存じの方もいると思います。
『仏教タイムス』が靖国神社で開催された「みたままつり」に「創価学会が提灯を奉納しネット上で騒然となっている」と報じました。
これに対し、創価学会は氏名不詳のままで偽計業務妨害及び名誉毀損罪で警視庁に告訴の申し立てを行いました。
『聖教新聞』では、「学会は献灯(けんとう)の申し込みなど一切行っていない」「学会が謗法を容認したとの印象を与えるものであり、学会の名誉を毀損(きそん)する」としていました。
告訴の申し立ての後を知りたいところですが、どうなったんでしょうか。
「下駄の雪」宣言
2018年6月23日の聖教新聞では、茶道裏千家の前家元 千 玄室(せん げんしつ)大宗匠が原田会長、谷川主任副会長と会見したとの記事があります。
当時の総理大臣の安倍晋三は、「美しい日本をとりもどす」と発言していたことを覚えていると思います。これは、「天皇中心の新体制国家の形成」「明治憲法への原点回帰」を目的とする日本会議が掲げるテーマです。与党自民党のほとんどの国会議員が所属している政権与党の支持基盤です。この日本会議の顧問や副会長には、神社本庁関係者も就いており、代表委員に千玄室が名を連ねています。茶道裏千家の他に日本会議という顔があるということです。総本部での会見は、与党自民党の「下駄の雪」宣言ではなかったのかと思います。
こういうことからも靖国神社の提灯奉納も勘繰りたくもなります。
当時、改憲が叫ばれる中、日本会議系の国会議員の集会が開かれ、そこには生長の家原理主義と公明党が肩を並べて参加しています。また、「美しい日本の憲法をつくる国民の会・中央大会」に、当時、公明党の斎藤哲夫幹事長代行が挨拶をするなどと報じています。
このように自民党にすり寄る公明党に対して、支持団体の創価学会が異を唱えないことこそ、その実態が創価学会だという証左にほかなりません。
三代の会長に貫かれる平和思想や日蓮仏法の信仰者としての矜持(きょうじ)を捨て、会員を政治に利用するばかりではなく、それに異を唱える者を黙らせるために訴訟まで起こしています。
〈創価学会の現状〉
組織活動やその一環である選挙の支援などに意見を述べる人に対し、納得するまでの対話もせず、除名したり役職を解任したりするなどして、組織から締め出しています。
組織幹部の一方的に押し付けるような態度に、会員の中には意見はあるものの、対話できない状況に、組織活動からフェードアウトしている人が見受けられます。なかには信仰から離れてしまう人もいるのではないかと心配しています。一方、会員は幹部の言うことに従うのが当たり前だという風潮もあり、打ち出しに対して自分で考えて行動せず、条件反射的に活動しているように思います。
〈「創価学会教学要綱」発刊〉
昨年11月18日、「創価学会教学要綱」が発刊されました。文字通り教学の要となる重要な内容が書かれています。
本来は、会員に丁寧に伝えるべき内容だと思いますが、現在まで、組織には説明などもされず、発刊されたことも知らない人が多くいると思います。
本年8月、その「創価学会教学要綱」に対して、創価学会元副教学部長の須田晴夫氏が、〝「創価学会教学要綱」の考察″という本を出版し、「創価学会の公的な教義書としては不適切であり、早急に撤回するべきと考える」と綴っています。
さらに本年9月12日には、原田会長へ書簡を送っています。
その後、〝「創価学会教学要綱」の考察″に対し、10月18日、聖教新聞のサイト上で、反論をしていますが、これまた支離滅裂の反論となっています。
読んでいて目を疑うばかりか、恥ずかしくなるほどのものです。
〈師敵対の構図〉
池田先生は本部幹部会で語られました。
「普通であれば、病気なるか、死ぬか、気が狂うか、自殺するか――それほどの大難また大難であった。しかし、私は生きて生き抜いた」と。
創価学会が変貌したのは、池田先生が受けたような大難(権力)を恐れた原田会長をはじめとする最高幹部の保身が原因であり、権力に迎合するその姿は、師敵対そのものです。
もう一つは、広宣流布という高い志をもって本部職員や外郭職員になった人達が、巨大な宗教団体として社会にも会員にも絶大な影響力があることで、おのずと特権意識をもつようになったことではないかと思います。
更に言えば、そのことに気づかず、もしくは気づいていたが、指摘してこなかった会員の側にも一定の責任はあると思います。それは私自身にもあると思っています。
今回、このように考える機会をいただき思うことは、保身、特権意識など、そうならないように意識していてもなってしまうのは、人の常ではないかと思います。だからこそ、他人事とせず、自身に問い続けることが大事ではないかと感じました。まずは、自分が初心に帰り、信・行・学の実践と共に、三代の会長の思想、なかんずく池田先生の教えを学び、師弟不二の道を歩んでいきます。
最後に、大事だと思うご指導を二つ紹介させて頂きます。
■1981年10月31日 第11回創大祭の講演「歴史と人物を考察 ―― 迫害と人生」
〈迫害こそ仏法者の誇り〉
歴史的偉業というものは、どんなに偉大な個人の名が冠せられていようとも、民衆という大地に、しかと根をはっているものなのであります。だからこそ民衆の犠牲のうえに君臨しゆく権力者やエリートは、野望と保身から発する、ドス黒いねたみと羨望の炎に焼かれるのであります。彼らの地位や位がどうあれ、その心根ともいうべき本質を、ゲーテは「人間もほんとうに下等になると、ついに他人の不幸や失敗を喜ぶこと以外の関心をなくしてしまう。」境涯にまで堕落してしまっているといっております。そこから民衆のリーダーに対して、迫害の嵐が巻き起こるのは必然の理なのであります。
(中略)
私も一仏法者として一庶民として、まったくいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僣越ながらこの”迫害の構図”に照らして見れば、迫害こそむしろ仏法者の誉れであります。人生の最高の錦であると思っております。
■1997年8月31日 第14回本部幹部会・第15回中部総会
〈殉教とはわがままを捨てること〉
命を捨てなければ、宗教は弘まらない。人々の心はとらえられない。
命をかけた尊い「心」に、人の「心」が感応するのである。
牧口先生も殉教。戸田先生も殉教。私も「殉教の精神」できた。
だから、ここまで世界に弘まった。(中略)普通であれば、病気になるか、死ぬか、気が狂うか、自殺するか――それほどの大難また大難であった。しかし、私は生きて生き抜いた。
これが「創価の精神」である。「師子の魂」である。
しかも私は、だれをも犠牲にせず、自分が一身に難を受けようという一念で戦ってきた。この心を知っていただきたい。
入信五十年――「殉教の心」で私は戦った。
皆さま方も、雄々しく呼応してくださった。
「広宣流布」を、ここまで進められたのも、その結果である。
「殉教の心」――それ以外に、広宣流布を進める「いい方法」などない。
いわゆる方法論は、枝葉(えだは)の問題である。
(中略)
殉教といっても、何も悲壮になることではない。
具体的には「わがまま」を捨てることである。
例えば、すぐに組織がどうの、あの人がどうのと、文句を言う。しかし、わがままな仏道修行などない。本当は、たとえ牢獄に行っても、文句は言えない。