「御書は読むのが大変だ」との声に対して、「読むのも大変ですが
、書き残すのはさらに大変な事だと思います」と指摘させていただ
き、日蓮大聖人が命懸けで、後世の我々のために書き残して下さっ
た五大部という重書を、今、読まずして、いつ読むのでしょうか?
読まないまま死ぬつもりでしょうか?と申し上げたのを思い出す・
・。
原田執行部は長い時間をかけて、会員の教学力を削ぎ、「根本教義」を変えても、会員達にはよくわからないだろうと、たかを括って邪教化を進めている。
元副教学部長、須田晴夫氏の『「創価学会教学要綱」の考察』を、私も3回熟読してみた。さすが池田先生と「法華経の智慧」を編んだ、生き残りの一人。執行部に対する完全なる「破折の書」と私には思えた。以下何箇所かを引用してみる。
*教学要綱の骨子の一つは、最後まで一貫して日蓮を「釈迦仏の使い」「上行菩薩の再誕」と位置付けていることである。(P9)
*釈迦本仏とは明言しないが、日蓮=上行菩薩の立場にとどまる限り、実質的には「隠れ釈迦本仏論」と見做されよう。(P13)
*法華経の明確な教示を無視して強引に釈迦を永遠の仏としていることはそれ自体が「一種の欺瞞」であり・・(P17)
*「教学要綱」が説く日蓮本仏論は言葉の上だけの「偽装」であり、「偽装日蓮本仏論」と言わなければならない。(P22)
*「教学要綱」が法華経文上の教相に囚われて文底の元意を理解しようとせず、身延派などと同列の次元にある事を示している。(P48)
*戸田城聖は「われらが御本仏日蓮大聖人は、御年十六歳にして人類救済の大願に目覚められ、かつまた宇宙の哲理をお悟りあそばされて」(戸田城聖全集第三巻)(中略)(教学要綱が)十六歳の時の悟りを無視するのであれば、その理由を明確に示さねばならない。その説明を一切しないという態度は説明責任の放棄であり、無責任・不誠実との非難を免れないであろう。(P62)
*「久遠元初」は学会教学においてはいわばキーワードともいえる重要概念だが、なぜその用語を用いないのか、「教学要綱」はその理由を一切説明していない。この点にも説明責任を真摯に果たそうとしない不誠実さが指摘できよう。(P66)
*「教学要綱」は、身延派などの態度に同調して真筆や古写本のない御書を基本的に用いない。日興門流の相伝書や「御義口伝」についても、その名称も含めて一切無視する方針をとっている。否定も肯定もせずに意図的に態度を曖昧にし、全てを無視していくあり方は実質的には身延派と同様であると評される。(P80)
*人法一箇は日蓮仏法において極めて重要な法理だが、「教学要綱」ではその名目すら示されておらず、なぜ人法一箇の法理も無視するのか、その理由の説明も一切ない。(P87)
*「教学要綱」は「久遠元初自受用身」という用語も一切用いていない。(中略)釈迦仏を日蓮の上位に置く。この様な態度は実質的には日興門流の伝統教義を否定し、日興門流から離脱する指向性を示すものと言えよう。(P98)
*これまで創価学会では一大秘法を「本門の本尊」としてきたが、「教学要綱」は三大秘法の根本である一大秘法を本尊から題目に変えているのである。これは重大な教義の変更である。(P117)
*「教学要綱や身延派のように題目を一大秘法と捉えて日蓮仏法の根幹とする在り方は日蓮仏法の理解として明確な誤りとなる。あくまで曼荼羅本尊こそが日蓮にとっての「出世の本懐」であり(P119)
*三宝の変更は重大な教義の改変だが、「教学要綱」においては三宝の内容を変えたことも変更の理由も一切説明されていない。(P120)
*池田の逝去直後に発刊された「教学要綱」は池田の監修を得たとしているが、内容は生前の池田の思想とは大きくかけ離れており、同書が池田の監修を謳っていることは、いわば池田を利用した態度であると評せられよう。(P134)
*なぜ日興を僧宝から外したのか、「教学要綱」には何の説明もない。このこと自体が大きな問題である。(P136)
*仏教全体の伝統として、仏・法・僧の三宝は帰依の対象であるから、僧宝を創価学会とすると創価学会という教団そのものが帰依の対象となりかねない。それでは教団を本尊と同様の絶対の存在とし、教団自体を信仰の対象とする「教団信仰」となるだろう。(P137)
*宗派の根幹である三宝を改変することは、自身の根本教義を否定する事であり、その宗派の宗教的自殺に等しい行為となるからである。その意味で、「教学要綱」が今回、法宝や僧宝を十分な説明もなく安易に改変したことは、驚くべき態度であり、極めて不適切と言わざるを得ない。(P141)
*「教学要綱」が日興を僧法から排除したのは、日興に対する忘恩となるだけでなく、日蓮仏法を後世に伝えた日興の絶対的な重要性を見失ったものと言わなければならない。(P142)
*日蓮正宗を拒絶しても日興門流の教義まで否定してはならない。日蓮・日興という師弟の法脈を離れて正しい日蓮仏法は存在しないからである。(P162)
*日蓮正宗が広宣流布という日蓮最大の遺命を放棄して自ら日興門流から脱落したのであるから、創価学会は従来通り日蓮仏法の根本教義を堅持してそれを流布していけばよいのである。(P163)
*会員に気付かせないよう、こっそりと教義改変を進める態度は「だまし」と言われても止むを得ないだろう。「教学要綱」が示した狭義の改変に自信があるのであれば、その変更内容を会内に広く徹底する学習集運動が展開されるべきである。(P163)
*教義改変を会内に徹底せず、既成事実を積み上げる形で会員が気付かないうちに教義改変を定着させようとする在り方は「欺瞞的」ともいえよう。(P164)
*各人の信仰生活の生命ともいうべき根本教義が事前の説明もなく、突然改変され、その受容を要求されるような事態は、心の静穏を害するという意味で、宗教的人格権の侵害となる恐れすら生ずるのでなかろうか。(P166)
以上引用。
「弘安二年の御本尊」を受持しないという、2014年の教義改変は、宗門と明確に離別するため必要なのかなあ・・などと曖昧なままに受け止められ、誤魔化せたかも知れない。
しかし今回は、「創価学会教学要綱」2023年11月18日発刊として、明瞭な「証拠」が残ってしまった。(池田先生が監修されたという「虚偽」を伴って)
そして2024年8月発刊、元副教学部長の「破折の書」によって、執行部の掘った「墓穴」は衆目に晒されるものとなった。
原田執行部は須田元教学部長と正々堂々、「法論」したらいい。こそこそと逃げ回るのは止めろと言いたい。また、せめて支部幹部以上の面々は、読んで熟慮すべきだろうと思う。
今こそ須田本の普及運動が必要ですね。
もちろんその内容を理解する事が一番大切だが、
もし教学に不案内な人でも、実質最後の池田先生の教学対談書である「法華経の智慧」の対談者である須田さんが、
「(教義要綱の)内容は生前の池田の思想とは大きくかけ離れている」
と証言していることの重みは理解できるだろう。
先生は現在のような状況を予見されて、須田さん達と「法華経の智慧」を残して下さったのかも知れませんね。あと生き残っている遠藤さんも含めて、「仇討ち?」の動きが、力を増していく事を祈るばかりです。
カナリア様
かねてより種々投稿を拝見させていただいております。
今回の「教学要綱」ーー古くから信心している人が読めば、
誰でもおかしいと疑問を抱く内容のはずなのに、残念ながら私の周りには
その声を聞きません。
(と、言っても査問を機に原田教団を退団することになり、多くの
人とは接しておりませんが)
おそらく読んでもいないか、学会の決めたことに有無を言わず
納得してしまうマインドになってしまっているのか・・・
そこで見識のあるカナリア様にお聞きしたいのですが、
原田執行部は、何故そこまで教義を変える必要があったのでしょうか?
また、そうせざるを得なっかたのかと思われますか。
貴殿のお考え、推察をお聞かせ願えれば幸いです。
推測するに、一つには「日蓮正宗」に対する怯えがあったのではないか。先生亡き後、自分達の指導力に自信がなく、会員が「寺」に回帰することを懸念した。よって「独自の教団なんだから、独自の教義を唱えても、何の問題もないんだ!」との間違った「全能感」をもとに、根本教義の変更に及んだ。
二つには釈迦が仏教の創始者であることは、一般常識としても宗教界としても明白。後から生誕された日蓮を「根源の仏」「御本仏」とすることから逃げ、世間に迎合に至った。
この背景としては、原田・谷川・宮田(能書き学者)の傲慢と間違ったプライドがあったと思う。また、師匠への思慕の念など持ち合わせておらず、教団の維持と自己保身を優先する「官僚精神」しか見えない。彼等には「師弟」もなく、「信心」もわかっていない・・。
天台宗の慈覚・智証(天台から見れば四代・五代)が「密教」を取り入れ、天台宗を邪教化していった「史実」に学ぶ時、似たような現象が起きたとも言えるかも知れない。
須田氏も言っているように、「日蓮正宗」は法主本仏論を唱え、日興門流から自ら離れていった。「創価学会は」そんな宗門を捨て置き、先生のご指導通り、日興門流の教義を守っていけば良かったのである。彼らは「頭のいいバカ」としか、私には思えない。ご参考まで。
懇切丁寧にありがとうございます。
やはり天魔は正法を歪めてしまう性質があるのかもしれませんね。
おっしゃるように「頭のいいバカ」かもしれません。
お忙しいところありがとうございました。