投書者:カナリア
朝日新書「新しい戦前」この国の“いま”を読み解く 内田樹・白井聡著 を読んだ。
「新しい戦前」とは2022年の年末、タレントのタモリ氏が、「徹子の部屋」で語ったフレーズである。著作の背表紙に二人の著者が短文を記している。ここに本書の要旨が詰まっていると思うので、以下引用する。
『白井:「新しい安保関連3文書を出したからには、日本政府は核攻撃されるかも知れない可能性を視野に入れています。戦前というよりも限りなく戦中に近づきつつあります。しかも、確たる国家意思によってこうした状況を招いたわけではなく、思考停止の対米従属でこうなっているわけです。それをこの社会はどう認識しているのか。ほとんど無批判に大軍拡が進んでいる」
内田:「戦後日本の安全保障戦略の大転換があって、軍事費も突出し、敵基地攻撃能力(反撃能力)まで言い出した。明らかに「戦争ができる」方向にシフトした。にもかかわらずメディアは反応しないし、国民もなにごともないようにぼんやり暮らしている。どうしてこうも無関心でいられるのか。政策転換そのものよりも、政策転換にまるで反応しない日本人の方がむしろ深刻な問題だと思います」』(引用終わり)
符合するかのように先日の5・3憲法記念日、東京新聞に「洞窟の囚人」から脱して‥と題して、秀逸な社説が掲載されていた。
「洞窟の比喩」というエピソードは、古代ギリシャの哲学者プラト
ンの著した「国家」にあるという。動物などの像が火にかざされる
と、洞窟の壁に影絵が映る。囚人たちはその影絵が真実だと思って
しまう事の比喩だという。
安倍・菅・岸田と続く10年余の政権下で数々の暴政が行われてきた。息のかかった高検検事を定年延長したり、日本学術会議の会員を任命拒否したり、老朽原発の運転延長も国会の議論をほとんど経ずに、閣議決定されてきた。
政府は憲法に拘束される側なのに、身勝手な憲法解釈変更など、本
来許されるべきことではない。しかし現状は、安倍内閣の2014
年の手段的自衛権の行使容認にはじまり、敵基地攻撃能力の保有・
防衛費の倍増・高性能戦闘機の輸出解禁など、次々と閣議決定だけ
で決められてしまっている。これ等の暴政に慣らされ、
世論の反応も薄くなっている状況が、「洞窟の囚人」
に例えられているのである。
この「洞窟の比喩」は批評家・小林秀雄氏の「考えるヒント」にも出てくるという。そして彼は「どうあっても戦うという精神」こそが「考える」という営みであると論じている。
社説は、「影絵のような名ばかりの民主政治とは、どうあっても戦
う。そんな精神を持ちたいものです。」と締めくくられていた。マスコミが「権力を監視する」という、自らの役割を放棄し、権力
に迎合している如くに見える、昨今の日本の社会状況から、「如実
知見」することの難しさを痛感する。
「英知を磨くは何のため、君よ、それを忘るるな!」
これは創価大学の創立者でもある池田先生が、大学に寄贈されたブロンズ像に記された言葉である。
「権力の魔性」を見破り、「社会の理不尽」と戦うことの出来る人材の輩出。この事こそが、池田先生の願いであり「希望」だったのではないか。私にはそう思える。