投書者:カナリア
先日、幾数十年振りに教学に造詣の深い、大先輩と再会出来た。学
生部時代の絆に損得は存在しない。数十年振りなのに言いたいこと
が言え、聞きたいことは忌憚なく伺えた。有難い。
2014年の教義変更についての教学的見解。「文底仏法」について、「日寛教学」についてどう考えるか等々。
本日は10月12日。弘安二年のこの日ご図顕されたとされる大御本尊。ご真筆問題はさておき、日蓮大聖人の「出世の本懐」はご本尊様を顕され、残された事に間違いはない。にもかかわらず、「民衆仏法の確立」が大聖人様の「出世の本懐」だとその意義をあっさり変えてしまった執行部。そして、「謗法の地にあるから用いない」などと「大本尊」を否定してしまったのである。自分たちの力の無さを棚に上げ、会員が宗門に戻ってしまう事を恐れて、姑息に教義変更してしまった、臆病極まりない現執行部。最早彼等に「宗教界の王者」を名乗る資格は全くない。
一方、王道を行く池田先生は、宗門と離別したばかりの1992年、1993年。授与できる御本尊が無い状況下で、「今後も大御本尊根本であることに変わりはない」と明確にご指導されている。現執行部とは真逆なのである。
ところで、グリグリ様の「開目抄」の講義、拝読致しました。素晴らしい。もっともっと御書を学ばねばならないと、痛感させられました。
77年前の戦後の焼け野原。一人出獄された戸田先生は、「法華経
講義」をもって、創価学会の再建をスタートされた。「教学」の確
立が何よりも大切だとのご確信からのことだったと思う。また草創
期には「剣豪の修行」の如き、御書の研鑽が行われていた。
他方翻って、現執行部は各地の開館から、出版コーナーを無くし、
先生の講義録などを会員から遠ざけ、各人が教学を深化させるのを
、結果として邪魔立てしている。
そして現在、執行部の思惑通りか、残念ながら会内に、教学研鑽の息吹は消え去っている。
前述した大先輩が言われていた。古来「坊主は本当にずるい」と。また男女平等を説いているのは「法華経」だけだと。確かに、キリスト教もイスラム教も儒教も、男女平等とは言えない。しかし法華経に説かれる「竜女の即身成仏」は2,000年来、この経典の核心部分の一つである。加えて七百数十年前の日本に於いて、日蓮大聖人は「男女はきらふべからず」と、革命的に仰せになっている。
この事一つとっても、我らは圧倒的に深い、仏教哲学を持しているのである。先生のご指南通り、仏法を根底にした人間性の輝き、人間主義こそが、社会・世界の変革のカギである事を再認識していきたいと思う。先輩は私の考えを受け入れて下さった上で、歴史的視点を忘れずに、大きな見地から、「混迷の現代」を見ていかねばならない事を諭し、励まして下さった。本当に有難い。
カナリアさん
痛快な2014年の教義改正への一撃。胸のつかえが取れ、スッキリとしました。
大御本尊の否定は、御形木本尊にも関わってくる筈なのに、執行部は支離滅裂な姿を露呈したと感じました。
あらためて考える機会をいただきありがとうございました。
「歴史的視点を忘れずに」
とは、とても重要なご指摘と思います。
机上の学者や役人は、歴史を無視した「正論」・「制度」を簡単に作り上げる。そこにあるのは人間の営みを忘れた「都合の良い理屈」である。
新しい真理は、これまで何故そのようにしてきたのかを肯定的に再歴史化した上に「止揚」されなければならない。