開目抄について②

2022(令和4年)10月度オンラインスタディで講義して頂いた内容を、ご本人の了承のもと掲載させて頂きます。


グリグリ著

皆様、こんばんは。それでは始めさせていただきます。

まず、はじめに申し上げたいことは、前回、開目抄の中にある五重の相対の内、「内外相対」を学びましたが、基本的な考え方として、この講座は五重の相対のみに限定して研鑽しようとするものではなく、五重の相対を通して日蓮仏法の基礎となる教学を皆さんと共に学び、互いに議論を深めていけるオンスタでありたいと考えています。その意味におきまして、講義の途中で若干、横道にそれる場合もあるかと思いますが、御了承願いたいと思います。

それでは大小相対を始める前に、前回の「内外相対」についてのおさらいと、若干の補足をしたいと思います。

(2)内外相対の概要とまとめ

内外相対は、中国の儒教とインドの古代バラモンと六師外道、そして釈尊の仏教とを対比して、仏教は「内道」、儒教・バラモン等を「外道」と位置付け、外道よりも内道が勝れていることを確認しました。

外道が内道より劣る最大の理由は、三世を貫く生命内在の「因果の一貫性」がないことです。ここで云う「永遠の因果の法」とは、自然科学を含めた物質的な世界の「因果律」ではなく、生命自体を貫いている因果のことです。外道は生命内在の因果の一貫性が曖昧であり、内道はそれを明らかにしているが故に、内道は勝れ、外道が劣るというのが、内外相対の結論でした。

――とは言っても、仏教以外の宗教にも、仏教の特色である「生命内在の因果律」の片鱗を伺わせる例があります。

たとえば、キリスト教などを見てみると、「今世の善悪によって死後、天国に入るか、地獄に堕ちるか、煉獄で試練を受けるかが定まる」とする考え方があります。それと合わせて「全知全能の神の意志によって選ばれる人」という考え方もあって、それらは因果応報的な考え方と対立しつつも、キリスト教の中に混合しています。

また、ひとくちにキリスト教といっても長い歴史の中で、教義論争や科学・哲学との対決等を通じて生み出された論議には、仏教の中の「相対論」にも似た掘り下げがあります。したがって、不徹底とはいえ「因果律」があるのも事実ですから、単純にキリスト教は「生命内在の因果を無視した外道である」と決めつけるわけにはいきません。

海外に日蓮仏法を宣揚する場合においても、幅広い理解力と柔軟な思考に立って「五重の相対」の基準を使っていくことが大切なのですが、基本的に五重の相対とはどういう内容を持っているのかを思索していくことも、今後はさらに大事になってくると思います。

そこで内外相対を考える場合、仏教は「内道」、仏教以外は皆「外道」というように、世界の各宗教にレッテルを貼って区別するのではなく、むしろ各宗派を超えて、生命の内に一貫した因果を認める考え方を「内道」とし、因果を否定したり、生命の外に絶対者(神など)を設け、その意志によって、人間の受ける果報が決定するという考え方を「外道」とする――というように立て分けた方が、より正確に「内外相対」が理解できるのではないかと思います。

そのように立て分けて理解すれば、御書にある「ただし、妙法蓮華経と唱え持つというとも、もし己心の外に法ありと思わば、全く妙法にあらず」(新版316㌻)と戒められた大聖人の御心に叶うものではないかと考えます。たとえば、

「組織の言う通りに活動していれば福運が付きますよ」とか、

「三桁の財務をすれば経済的に豊かになりますよ、財務に勝る大善なし」とか、

「ツボを購入すれば先祖が救われますよ」というような

考え方や指導などは、たとえ「妙法蓮華経と唱え持つ」人の言葉であっても、そもそも「因果の法則」が曖昧であり、それらは「外道」を通り超えて、完全に邪義の部類ではないかと思うのです。

――と言うのは、今の学会組織の活動方針は、選挙活動が中心であり、権力の庇護のもとに学会組織を守ろうとする動きのように見えます。その証拠に、公明党の政策に異議を唱えようものなら、即座に組織の権力を使って、反逆者のレッテルを貼られ村八分に遭います。

学会組織は、大聖人が打ち立てた「立正安国の精神」を利用して、公明党の支援を訴えていますが、そもそも立正安国の本来の主旨は、人々の胸中に正法を打ち立てる折伏の実践を通して社会を変革することです。

全国の学会組織とは言いませんが、少なくとも私の所属していた組織では、選挙期間に入れば、折伏は中断、新聞啓蒙も中断、未来部の人材育成も中断、さらに座談会を始め、あらゆる会合は選挙中心の世法的な会合に変貌します。そんな組織の打ち出す活動を実践して、仏法的な意味での「福運」など付くわけがありません。

また「三桁の財務をすれば経済的に豊かになる」という考え方は、信仰による自己変革の経済革命ではなく、「これだけ金を払えば、これだけ利益を得られる」という利害関係に基づく契約に過ぎません。ましてや「ツボを購入すれば先祖が救われる」などという説法に至っては「何をか云わん」のレベルであり、もはや宗教の名にも値しないでしょう。

見方を変えれば、こんな単純な理屈も理解しないで、盲目的に組織活動をして「私は幸せになるんだッ!」と本気で思っている人がいるとすれば、仏教はおろか、内外相対ですら理解していない「無知で不幸な人」と言わざるを得ません。

自己の信念に基づいた「平和のための社会活動」にのめり込むことも時には必要ですが、「信行学」に裏打ちされた仏道修行の土台を作らずして、平和運動等に身を投じても、三類の強敵の前には、自己の信念などひとたまりもなく吹き飛んでしまいます。

そうなれば、開目抄で示された「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(新版117㌻)との言葉さえ信じなくなり、「つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし」等の愚かな姿に成り下がり、平和運動どころか信心さえも止めてしまう危険性があります。

教学研鑽は、単なる学問の追究だけではありません。人生をかけて経文を(私たちで言えば御書を)我が身に当てて取り組む大事な仏道修行です。大聖人も開目抄の中で「この経文、日蓮が身に符契のごとし。……一々の句を我が身にあわせん」(新版114㌻)と述べられ、自身の流罪・死罪は過去世の宿習であり、「護法の功徳」によって罪を軽く受けていると受け止めています。しかも大聖人は、大難に対して「ひるむ」どころか、むしろ「悦び」であると捉え、法華経身読の姿を弟子に示しています。

日蓮仏法を信奉している信仰者ならば、必ず「三類の強敵」が競い起こるのは必須条件です。それに打ち勝つために、まずは万事を差し置いてでも、この一凶を禁ずる「信行学」の実践に取り組み、特に若い人たちは、基礎教学を真剣に研鑽していくことが肝要ではないかと思います。

――大変長くなりましたが、以上が前回学んだ「内外相対」の概要です。

(3)内道(仏教)の基準と教判

さて、今度はその内道(仏教)の中でも、様々な教えがあり、その教えの内容によって「経」には高低浅深、また勝劣があります。それが、開目抄で示されていく一代聖教、いわゆる「八万法蔵」の浅深・勝劣です。そして内外相対も含めて、それを整理したのが、日寛上人の「五重の相対」論です。

近年、学会教学部は基礎教学を研鑽する上で、この「五重の相対」を学ぶ対象から外しました。初学の会員に「五重の相対論」を学ばせないとすることは、日寛上人が「教の重」と位置付け、大聖人が「万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん」(新版94㌻)と訴え、「これは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし」(新版102㌻)と意義付けられた開目抄を捨てたに等しい蛮行です。

大聖人が「私の形見と見よ!」と弟子に贈られた開目抄の教判も重視せず、得々と講義をする教学人の姿を見ていると、「剣豪の修行を思わせるが如きその厳格なる鍛錬」の姿とは程遠く、まるで「サルがダンスを踊って悦に浸っている」姿に見えます。この一事を見ても、今の学会が、いかに世界広宣流布の実現を考えていないかが見て取れます。
それはさて置き――大聖人は開目抄の中で、

― 開目抄 ―

「この仏陀は、三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間、一代聖教を説き給へり。一字一句、皆真言なり。一文一偈、妄語にあらず。外典・外道の中の聖賢の言すら、いうことあやまりなし」(新版53㌻)

この仏陀は、三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間、一代聖教を説き給へり。一字一句、皆真言なり。一文一偈、妄語にあらず。外典・外道の中の聖賢の言すら、いうことあやまりなし」(新版53㌻)と述べられています。
一代聖教の勝劣・浅深を判定するに当たり、大聖人はまず「釈尊の説いた一代聖教は皆、真実の言葉であり、その言葉には一切ウソがない」と定義し、外道の「聖人・賢人」ですら事と心は一致していて、言う言葉にあやまりはないと述べています。
これを前提として、大聖人は

― 開目抄 ―

「ただし、仏教に入って五十年の経々、八万法蔵を勘たるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり。顕教・密教、、軟語・麤(そ)語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の差別あり」(新版54㌻)

【仏教思想(一代聖教)】のポイント!

八万法蔵の内容には、

①高低浅深の差別がある

②勝劣がある

ただし、仏教に入って五十年の経々、八万法蔵を勘たるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり。顕教・密教、、軟語・麤(そ)語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の差別あり」(新版54㌻)と明示しました。

すなわちこの御文は、内道たる仏教思想と言っても、その教えの内容は様々あり、経には高低浅深の差別があって、教えにも勝劣があるという意味になります。八万法蔵という膨大な経典もさることながら、二千数百年の長い歴史の中で、様々な経典を依経として誕生した各宗派を比較し、勝劣を分けることは容易ではありません。

さらにまた、経典によってそれぞれ特長があり、何を基準に置くかによって、高低浅深の配列が逆転することもあります。たとえば、国や社会の「災い」がどのようにして起こるかといった問題については、法華経よりも金光明経(金光明最勝王経)等の方が、緻密に説かれています。

一代聖教の勝劣判定のポイント!

① 何を仏教の根本と見るのか
② 何を基準に諸宗(諸経)の勝劣を判定するのか――(すべきか)

そこで大聖人は一代仏教の勝劣を判定するにあたって、何を仏教の根本と見、何を基準に諸経・諸宗の勝劣を判定するか、また「すべきか」を提示されました。それが次の一文です。

「ただし、この経に二箇の大事あり。倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗と真言宗との二宗はひそかに盗んで自宗の骨目とせり。一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。竜樹・天親、知ってしかもいまだひろいいださず。ただ我が天台智者のみ、これをいだけり」(新版54㌻)

【基準にすべき法門】 一念三千の法門

①一念三千はどの経典に説かれているか

②諸宗はどの経典を依経としているか

ただし、この経に二箇の大事あり。倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗と真言宗との二宗はひそかに盗んで自宗の骨目とせり。一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。竜樹・天親、知ってしかもいまだひろいいださず。ただ我が天台智者のみ、これをいだけり」(新版54㌻)という御文です。

大聖人は、一代聖教の勝劣を判定するにあたって、基準にすべき法門は「一念三千の法門」であるとし、その法門がどの経典に説かれているか、また諸宗はどの経典を依経としているのかを見ていけば、おのずと各宗派の勝劣が見えてくる――ということを明示されたのです。

一念三千は仏法独自の悟りの法門であり、万人成仏の「根源の法」です。大聖人はこの一念三千の法門を基準にして諸宗を見渡せば、俱舎宗・成実宗などは一念三千の名前すら知らない。また華厳宗と真言宗においては、一念三千の法門をこっそり盗んで自宗の中心教義にしている――と破折しています。そして竜樹・天親は根源の法たる一念三千は知っていたけど、心の内に留め、ただ天台大師だけが「法華経」から一念三千の法門を取り出したのだと述べています。

大聖人は、実教たる「法華経」のみに「一念三千」が説かれていることを示された上で、華厳経や大日経にも「一念三千」があると主張する諸宗を破折するために「権実相対」を明示していきます。そして地涌の菩薩の自覚に立つ法華経の行者が末法弘通の主体者であることを示すために「論」を展開されていくのが「開目抄」の大きな流れです。

一念三千の法門は、ただ法華経本門寿量品文の底にしずめたり」(新版54㌻)

① ただ法華経   ― 権実相対    三重秘伝抄 (日寛著)

② ただ本門寿量品 ― 本迹相対    三重秘伝抄 (日寛著)

③ ただ文の底   ― 種脱相対    三重秘伝抄 (日寛著)

【三重の相対】「五重の相対」特に重要な位置を占める

① 内外相対・・・内道(仏教)と外道(儒教・バラモン)

② 大小相対・・・小乗教と大乗教

③ 権実相対   六巻抄(三重秘伝抄)に収録

④ 本迹相対      六巻抄(三重秘伝抄)に収録

⑤ 種脱相対    六巻抄(三重秘伝抄)に収録

先の御文にある「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり」では、ただ法華経が「権実相対」、法華経の中では、ただ本門寿量品が「本迹相対」、本門寿量品の中では、ただ文の底(文底)が「種脱相対」に相当します。この「三重の相対」が五重の相対の中でも特に重要な位置を占め、日寛上人はこの三つの相対を「三重秘伝抄」として整理し六巻抄に記されました。

さて、五重の相対で内外相対の次にくる「大小相対」は、開目抄では特に詳しくは論じてはいませんが、大小相対は当時の日本仏教界ではすでに解決済みであり、一念三千の法門を明かすにあたっては、ほとんど無関係の議論であるため、開目抄で特に取り上げる必要がなかったものと考えられます。

(4)大小相対の基準

非常に前置きが長くなりましたが、以上のことを踏まえた上で「大小相対」について学んでいきたいと思います。

「大乗」と「小乗」という呼び名は、仏の教法を迷いの此岸から悟りの彼岸へ渡す船になぞらえるところから出たものです。大きい船は大勢の人を乗せて運ぶ船であり、小さい船は少数の賢い人しか乗せられない船という意味で「最上利根の人」が乗る船とも云われています。したがって、「大乗・小乗」という呼び名自体、すでに勝劣の区別を含んでいます。

小乗経と大乗経の立て分け!

天台の教判「五時八教」から

【五時】

小乗教 ― 阿含(部)

大乗教 ― 華厳・方等・般若・法華涅槃

 問題は、阿含部の教えが「小乗」と呼ばれ、それ以外の経典が「大乗」とされるのは「なぜ」かということです。小乗と呼ばれる阿含部の教えは、自己のみの解脱を目的とし、一切の煩悩を断じ尽くすための複雑で多岐にわたる戒律が定められています。

 釈尊滅後、まず仏教史の主流を占めたのは、この「阿含部」の経典を根本とした教えです。この経典は、後の大乗仏教徒によって「小乗教」と呼ばれるようになりました。

小乗教の教え!

・縁起論 ― 流転の十二因縁(縁起)

還滅の十二因縁(縁起)

・生命に内在する「執着心」との対決

大乗教の教え!

・生命を肯定し「他者を救う」菩薩行の実践

・生命に内在する「智慧」の開発

小乗教の教えを簡単に説明すると、一切の事物は縁によって起こるという縁起思想を基本としています。すなわちこの世界の森羅万象は、何一つ独立して存在するものはなく、相依り、相対し、相助け合っている。人間もその例外ではない――ところが、その調和ある自然の循環を乱し、みずからもさまざまな「苦」を招くものがある。
それが人間の内にひそむ「執着する心」である。その故に、人生は「苦」から「苦」へと悪循環をきたしていくのだ――というのが「流転の十二因縁(縁起)」という考え方です。そしてその悪循環を断ち切るには「執着心」を滅する以外にない――というのが「還滅の十二因縁」思想と呼ばれるものです。
この二つの思想、考え方のもとにおいての修行は、みずからの生命の内にひそむ「執着心」との対決が中心となります。それがさまざまな苦行や戒律(規則)として示されたのが、いわゆる阿含経の中身です。
しかし生命そのものから生じる「執着心」との対決は、結果的に「身も心も滅する」ことが最終的な目標となり、しかも小乗教の目指す解脱とは、灰身滅智といって、再びこの生死流転の世界に生まれてこないことを意味しますから、小乗教の修行、いわゆる解脱を成就するための修行は、一般の人々には実践不可能でしょう。
しかしそれでは「万人を救う」という仏教本来の精神から遠く離れたものになり、結局、迷い苦しむ他者を救うことはできません。しかも「執着心」自体は、善でも悪でもなく、相対するものによって善にも悪にも成り得るものです。たとえば、お金に執着するが故に他人のお金を奪うのは「悪」ですが、その反対に「苦しむ人を助けたい」という執着がなければ、仏教が世界に広まることはなかったでしょう。それゆえ、「執着心を滅する」という小乗教の教えは弾破され、次に起こったのが大乗教です。

大乗教の教えを大まかに説明すると、小乗のような細かい戒律にとらわれたり、自己の煩悩を断じ尽くすことのみに目を奪われるのではなく、迷い苦しむ他者を救済する慈悲、すなわち菩薩行によって、みずからの生命の内に悟りを可能とする「智慧」が内在することを説いた教えです。
すなわち、修行者の最高位である「阿羅漢」を目指して灰身滅智の解脱を成就する小乗教に対して、大乗教は生命を肯定することを前面的に打ち出し、迷い・苦しむ人々を救済する菩薩の道(慈悲行)を強調するとともに、それを通して自己の生命を内観して智慧を開発することを主張したのです。

ただし、ここで注意すべきことは、持ち入る経典が大乗教であっても、その実践の姿勢の如何によっては「小乗」に堕する危険性もはらんでいることです。
たとえば、他者を救済する実践があっても、救済に対する見返りを期待した姿勢であるとか、救済するフリだけして、実は自己の名声のみを求める姿勢であるといった場合です。それらは大乗教における慈悲の菩薩行ではなく、自己の繁栄のみを目指した小乗教の姿そのものです。
ましてや大乗教徒でありながら、「人の不幸の上に自身の幸福を築く」蛮行は、小乗教はおろか、畜生以下の振舞いであり、もはや人間ではなく魔者です。しかもその魔者は必ず仏法者の中から出現するというのが仏教の定説になっていますから、私たちも決して油断せず、仏の智慧を開発する「信行学」の仏道修行をまじめに実践していくことが必要だと思います。

さて、ここからはちょっとむずかしい話になるかも知れませんが、
日寛上人は、大乗教徒と小乗教徒が対立関係にあった正法時代の「観心修行」について、代表的な「唯識論」を挙げて、次のように述べています。

およそ観心とは、正法一千年は最上利根の故に、或いは「不起(ふき)の一念」を観じ、或いは「八識元初の一念」を観ず(文段)

【大乗哲学の代表的思想】

・唯識論 ― 天親(世親)・著作

・空観論 ― 竜樹・著作


およそ観心とは、正法一千年は最上利根の故に、或いは『不起の一念』を観じ、或いは『八識元初の一念』を観ず」(文段)と。

この文言だけ聞けば、「ちょっと日寛さん、あんた何言ってんの? 意味がわかんない…」となりますが、この「唯識論」は、古代インドの僧である天親(世親)が確立した思想であり、竜樹は小乗教を論破して「空観論」思想を確立しました。

「空観思想」を簡単に言うと、万物は有でもなく、無でもなく「空」であると説いています。それと同じく「唯識思想」は万物(有)なるものを仮(け)とし、その奥に「識」を見出しています。

要するに、外に見られる一切の事象や個人の存在は「アラヤ識(第八識)」を根本として、さまざまな識(六識・七識)、すなわち心の識の作用によって表されたものにすぎないと主張し、結論として「識」を離れて実在は無いという考え方です。

そして、私たちが目の前の事象に誤った判断をしたり、執着するのは、一切の根本になっている「アラヤ識」を曇らせている汚れた思考作用や、さまざまな感覚的識(六識・七識)にとらわれているからであるとし、正しく認識し、正しく対処していくためには、それらを超えて「根本の識」を見つめなければならないと説いています。それが「不起の一念」「八識元初の一念」を観じるという意味になります。

【不起の一念】(八識元初の一念)

不起とは、働きが起こる前の状態のことで、私たちの精神作用というものを見つめた場合、

「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」等の感覚によってさまざまな事象を受け入れています。

つまり、私たちの精神作用は、外の事象によって大きな影響を受けつつ働いているということです。

だから純粋な精神というものを主観を交えず冷静に観察して意味を明らかに知る(※これを観照という)」ためには、これらの条件によって左右される前の精神を見つめなければならないと主張しているのです。

 不起とは、働きが起こる前の状態のことで、私たちの精神作用というものを見つめた場合「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」等の感覚によってさまざまな事象を受け入れています。つまり私たちの精神作用は、外の事象によって大きな影響を受けつつ働いているということです。だから純粋な精神というものを「主観を交えず冷静に観察して意味を明らかに知る(※これを観照という)」ためには、これらの条件によって左右される前の精神を見つめなければならないと主張しているのです。
また、これまでの人生においてみずからの中に蓄積してきたさまざまな誤った考え方も、正しい精神の観照を妨げるものです。先入観があるために、正しい判断を妨げられるのがその例です。
それらの障害物を取り除いていった時、その生命の底に純粋な、一切を生み出す「根源の識」があるというのが「不起の一念」です。
天親はこれを「八識論」としてまとめ、八識を根源の識として「八識元初の一念」と呼んだのです。

さて、なんだか分かったような、分からなかったような理屈ですが、およそ世間一般の普通に生活している人が、この「八識元初の一念」を観ずることは、それほど簡単なことではありません。
六識や七識を排除して「その奥にある精神を探る」と言っても、現実社会に生きる私たちは六識や七識に左右されないことなど、ほとんどあり得ないといっても言いでしょう。そもそも人間は無意識のうちにみずからの経験によって培われた思考法で物事をとらえていると思うのですが、その思考の一切を排除した状態というものが本当に有るのかどうかさえ疑わしいほどです。
百歩譲ってそれが可能であったとしても、それができる人は極めて少数であることは間違いありません。だから、日寛上人は「最上利根」の人のみがそれを成し得ると言ったのです。

【大小相対の対比は?】

小乗 ― 自己の煩悩(執着心)のみにとらわれた「自利の阿羅漢」を目指す

大乗 ― 他者へ目を向け慈悲の実践によって煩悩に負けない自己を確立する「利他の菩薩」を目指す

したがって、大小相対の基準(骨子)は、細かい戒律にとらわれ、自己の煩悩(執着心)のみにとらわれた自利の「阿羅漢」を目指す小乗教と、迷い苦しむ他者へ目を向け、慈悲の心と実践によって、煩悩の迷いに負けない自己を確立しようとする利他の「菩薩」を目指す大乗経との対比であり勝劣になります。

これはもうどちらが勝っているかは一目瞭然だと思います。釈尊はたとえ大乗教徒であっても「自利」のみに生きる阿羅漢、つまり「二乗」を徹底的に嫌っていました。
現在の創価学会に置き換えても、「組織を維持するために会員を規則で縛るのか」、もしくは「会員を幸福にするために組織を維持するのか」――の二つを対比すれば、どちらが創価三代のお心に適う思想なのかは一目瞭然ではないでしょうか。

さて、最後になりますが、大乗教と小乗教の観心修行を通して心得ておきたいことは、生命の内にひそむ「執着心」との対決が中心となる小乗教の「自利」も、大乗哲学(空観論・唯識論)を人々に教え、生命を内観し、智慧を開発することを目指す大乗教の「利他(慈悲行)」も、結局は、生命の奥にある精神のみを見ようとする「自利」の観心修行であるため、真剣に修行をすればするほど、現実世界に存在するあらゆる事物や現象に対して無関心になりやすく、否定的な態度をとり、やがては山林に入って瞑想にふける修行にならざるを得ないということです。

したがって、総体的に「大乗」と呼ばれる教法の中でも、そこに説かれた内容によって、さらに「権大乗」と「実大乗」に分かれているというのが、次の「権実相対」となるわけです。

以上で「大小相対」の講義を終わります。ありがとうございました。