【投書】自活座談会及び自活運営について思うこと

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投書者:グリグリ

近頃、自活座談会の立ち上げから携わっていた「H座長」が自活運営及び自活座談会・活動から退きました。なぜ、H氏が自活の集いから退こうと思ったのか――私は運営側ではないので詳しい理由はわかりません。また運営側の人に聞いても「H氏がその理由を何も言わないので詳しいことはわからない」とのこと。

それを聞いて、H氏退去で一番「困惑」したのは運営側の人たちではないかと想像しました。

なぜかと言えば、何をするにしても、いくら「個人の自由だ」と言っても、何かを発信する以上、その発信者や運営内容に変更・変節があった場合、それを自活に集う参加者に説明する責任が伴うと思うからです。

とはいうものの自活に限らず、世間でも「信じていた人に裏切られた」ということはよくある話でいくら気を付けていても人間の集まりである以上、そのような事態は防ぎようもありません。また運営者に「責任が伴う」といってもおのずと限界が生じます。

そもそも自活運営の人たちは、誰かに何かを言われて運営しているわけでも、義務でやっているわけでもなく、「何とかみんなが正しい信心を実践して幸せになってほしい」と思う気持ちから、自分に出来ることを全力で考え、事実の上で運営し、発信する勇士の集まりだと思っています。

皆さん、想像してみてください。

1 全国から各県担当者の人材を探し、
2 運営側に携わってくれる人材を探し
3 座談会当日は参加者にメールを送信し
4 毎月出演者を探し
5 毎月リハーサルを行い
6 有料のZOOMで座談会を開き
7 ヘマをすれば文句を言われ
8 自活を円滑に進めるためのルールを守れない人を排除すれば「冷たい」と言われ
9 ルールを守れない人を排除しないで情報漏洩すると「セキュリティーが甘い」と言われる

それでも「信心している人が少しでも希望を持ち元気になっていただければ・・・」と、一生懸命に毎月奮闘してくれている ― 誰も頼んでいないのに・・・

実にご苦労様なことだと思いますし、私はそのような「しんどい」作業をしてまで開催してくださって感謝申し上げます、という気持ちでいっぱいです。

皆さんはそんなこと出来ますか?

運営側の一員になって「俺も、私もやってやろうじゃないか!」と思いますか?

結局、誰もしないじゃないですか。

結局、自分は好き勝手にしているクセに、人には「あ~だ、こ~だ」と言うだけで、まるで高みから見物しているように見えます。

まだまだ独り立ちできず、親に養ってもらっている未来部じゃあるまいし、厳しい現実社会で生きている大人ならば、そんな道理が通らないことぐらいはよくご存知だと思います。

しかしどういう訳か「信心の世界」だけは、それが通用すると思っている甘ったるい信仰者がいるようです。

大聖人は信心を実践しているが故に父から2回も勘当された池上宗仲の弟(宗長)に対して次のような手紙を送っています。

このたび、右衛門志殿が再度の勘当をされたそうで、そのことに関してはあなたの奥さんにここ身延で言っておいたとおりです。すなわち、その時に『右衛門志殿は、また必ず勘当されるでしょう。そのとき兵衛志殿が気がかりです。そのときに、あなたがしっかりしなくてはいけません』と言っておいたのです。

今度、あなた(弟、宗長)は必ず退転されると思うのです。退転するのを、どうこう言うつもりは毛頭ありません。ただ地獄に堕ちてから日蓮を怨んではなりません。その時は知りませんよ。千年間もたった苅茅も一時に灰となってしまい、百年の功も一言でやぶれるというのは、物事の道理です」(通解・新版御書p.1487~、御書全集p.1091~)

と述べられ、さらに、

父の左衛門大夫殿は今度、法華経の敵に定まったように思われます。兄の右衛門大夫志殿は、今度、法華経の行者になるでしょう。あなたは目先のことばかりを思って親に従ってしまうでしょう。そして物の道理のわからぬ人々は、これをほめるでしょう(同)

もう御文の説明はいらないと思います。この大聖人のお手紙を読んで「大聖人は冷たい」「大聖人は人情が無い」と思う人いますか?

もしいたとしたら、これを機会に学んでください。

日蓮仏法を生涯信仰しようと決意する人は、必ず幸せになると同時に必ず信仰心を根底からぐらつかせる「難」というリスクがあることも自覚しておくべきで、そのリスクを回避するのは、他ならぬ自分自身です。

大聖人の云う「信仰者を守る」という意味は、「法華経(日蓮仏法)を説の如く説き、各人にそのまま伝える」ことと考えます。あとはその説を信じるか信じないかは当人の問題です。

そして大聖人は「疑うことなかれ」と訴えられた。それを疑って地獄にいっても日蓮のせいではないというご教示は「仏法の道理」を述べたものだと思います。これを「冷たい言葉だ」と思うなら、大聖人のご教示を信じればいいじゃないかという話です。

いくら人を守るために美辞麗句を並べたところで、その難に立ち向かって戦うのは「ご本人」なのですから、本当のことをそのまま伝えるしかないでしょう。弱い自分を見つめて強くなるしかない。それが人生の本質ではないでしょうか。

自分が不平や不満、また不幸を感じるのは誰のせいでもありません。大聖人の仏法はそういう教えです。意見が合わないなら止めればいいだけの話ですし、いやなら去ればいいだけの話です。

きっと、H氏はそう思ったから去ったんでしょうし、H氏は信心まで辞めたわけではないのですから、温かく……いや、冷めた目で見守っていればいいと思うんですがねぇ。

今回の出来事は、H氏の問題であって運営側にどうこう言う話ではないし、思うことがあれば直接H氏に言えばいい話だと思います。

どうも私は700年前から歌い続けられている「河内音頭」発祥の地である八尾で育ったせいか、「どうでもいい奴はどうでもいい」と思う割とあっさりした性格で昔から河内平野の人種は、どちらかというと「親分肌」の大将がゴロゴロいるので、あまりそんな案件は気になりません。

意見や考えが違うなら無理にいることもないし、無理にいてもらう必要もないというのが私の考えです。

事実、八尾で開催している学習会はそういうスタンスで開催し、しかも敵がいる中での学習会ですから参加者にイヤな思いをさせないための手段とも捉えています。

そのようなスタンスで学習会を7年もやってますから、中には「あ~だ、こ~だ」という人もいますが、私に言わせれば、

「じゃ~、お前が理想的な学習会を開催してみろよ」
「それが出来ないんだったら、自ら学習会を開催できるだけの実力をつけろよ」というだけの話です。

これからもH氏のような人が自活メンバーから出てくるかも知れません。でもそれは仕方がないことです。現に今までもそういう人たちがいました。

だからといって私は直ちにそれらの人たちを「敵」だとは思えません。まぁ~ 裏切られたとは思いますけど・・・。

いずれにしても、自活運営局の皆様には大いに胸を張って運営していただきたいものです。敵がうごめく中で、これだけ門戸を開けて開催している座談会は今のところ、どこにも無いのですから、大いに頑張ってください。というか、私もがんばります。

PS
なお、上記文章の責任は私個人にありますので、反論のある方はどうぞ!
受けて立ちます。

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