開目抄「六難九易」

投稿者:鬼滅の言

当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。

開目抄下 御書p.223

「法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」と大聖人は説かれています。

しかし、私は思うのです。私の信仰では 「法華経の六難九易を弁う」ことはできないと。

それは六難よりも九易のほうが難しいと思う信仰のレベルであるからです。

三千大千世界を蹴飛ばす事は難しく、法華経信仰の実践は易しいと私は思っています。

そして、その考えが逆転することはあり得ません。
殉教を覚悟しなければならない、また大難や大弾圧を覚悟しなければならない、そのようなレベルでの信仰ではないからです。

しかし、そんな私でも、また、他の誰にでも 「法華経の六難九易を弁う」ことができる決意があり、実践があります。それは、例えばイスラム国や北朝鮮の人々に大聖人の仏法を弘め、広宣流布していこうとの実践を決意することです。その時に六難の六難たる所以が分かるのです。

自らの生命を変革し、さらには他の人々の生命をも変革する!それは三千大千世界を蹴飛ばす事よりも難しいことであると!

誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し

如説修行抄 御書p.504

六難が難しいと捉えるか
九易が難しいと捉えるか
信仰実践のレベルの問題である!
私はそう思うのです。

*戸田先生が「謹んで開目抄の一節を拝したてまつる」と仰せられた重書ではありますが、私も2年間にわたって、毎週、有志3人で勉強してきました。

その中で感じた点を今後、投稿させていただきます。よろしくお願いします。