離山そして破折~師匠と弟子の真実
恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)[天慶5年(942)~寛仁元年(1017)]・・・・
比叡山横川・恵心院の源信は43歳で「往生要集」一部三巻を著し、師・良源の天台法華と念仏の融合思想を発展させて「厭離穢土欣求浄土」の念仏最勝を説き、更に「観想」と「称名」二つの念仏の内「観想」を重く見て、「念仏を唱える功徳、善業、その優れたる所以」を説いて浄土往生への道程を示します。
時を同じくして、慶滋保胤(よししげのやすたね)が「日本往生極楽記」を編纂(985~987)し、天台浄土教の展開は極楽浄土への信仰の隆盛となり、この頃には八幡神の本地も釈迦三尊から阿弥陀如来へと変化し、広くいきわたり定着するようになります。
源信は64歳の時「一乗要決」三巻を著し、法華一乗思想を強調して一乗真実三乗方便の教義を確立。ですが、彼は「阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして合掌しながら入滅した」とされており、これは終生念仏者であったことを示す伝承ではないでしょうか。
浄土真宗では七高僧の第六祖を源信としていますが、中古天台本覚思想の恵心流の祖ともされています。
さて、そのような源信に対する日蓮大聖人の認識は、正元元年(1259)頃の「守護国家論」では、源信が「往生要集」を著したのは「法華経に入らしめんがために造るところの書」「法華一乗への導入の書」というもので、源信の立場は後に著した「一乗要決」での法華一乗にあったのであり、法華経こそが本意であったというものでした。
ところが、いわゆる佐後の「撰時抄」(建治元年・1275)では、その評価が一変しています。「天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」と痛烈に批判するのです。
これはいったいどうしたことでしょうか・・・・
この表面的な事実だけを見て、「日蓮は前言を翻す無節操な坊主」「自語相違だ」と批判する向きもありますが、事実の奥には真実というものがあります。
恵心僧都源信に対する言説の、わずか十数年後の逆転に至る過程には日本国にとっての一大事、「文永の役」がありました。
振り返れば、大聖人が文応元年(1260)に進呈した「立正安国論」の諫めは用いられることなく、自身に迫害の牙を向けられる過程で他国侵逼難は文永5年(1268)に「西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状」(安国論奥書)として現実に近づき、朝廷、幕府は諸社寺に異国調伏を命じることになります。ことここに至り、大聖人は若き日の修学研鑽のきっかけとなった承久の乱にまつわる長年の疑問を、当時の情勢と重ねることにより氷解させます。承久3年(1221)、鎌倉方調伏の宣旨を下した後鳥羽上皇ら朝廷側と、文永5年(1268)以降、蒙古の影に動揺し異国調伏を命じた朝廷、鎌倉幕府は、密教による祈祷に頼るところで軌を一にしていたのです。
その後の文永8年の法難、竜口、佐渡配流、鎌倉帰還、身延入山、そして熱原の法難へと至る過程で大聖人が掴み得たもの、顕したものは、「第三の秘法今に残す所なり、是偏に末法闘諍の始他国来難の刻、一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり。経文赫赫たり所説明明たり」(四十九院申状)というもので、日本国の天災地変、差し迫る外国勢力による侵略という国家の存亡に関わる二つの事象を、根本から解決する術となるものでもありました。
「文永の役」・・・既存の仏教は亡国を防ぎえなかった。残されたのは、同時に立たねばならなかったのは「日蓮が法門」、日蓮大聖人による仏法ただ一つになったのです。
そのような自覚と高揚から、佐渡期より本格的に始まる東密批判、身延入山以降の台密批判、即ち比叡山の諸僧破折への展開になるのではないでしょうか。
大聖人は自らが学んだ天台宗・台密からの、いわば「心の離山」というものを成し遂げたように思うのです。
東密、台密の悪法の根源を見抜くのがいかに難いことか、そのため、いかに多くの僧俗が誑惑されていたことか、自身の天台宗・台密時代への回想の意も含めてでしょう、大聖人は建治3年(1277)8月23日の「富木殿御書」に「今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆、上は主上・上皇より、下は臣下・万民に至るまで、皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫の檀越なり」と記すのです。
空海入寂(835年・承和2年)以来442年、円仁入寂(864年・貞観6年)以来413年という長期間、日本国の人々は「法華経は已今当の諸経の中の第一なり。然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり」(同)という空海・円仁・円珍ら三師の教えを信じきたってしまった。
佐渡期から身延期にかけ、日本国が亡国の淵にある根本原因を究明した大聖人は東密、台密に「その因有り」として徹底した批判を加えます。
その表現の一端が同書の「今日本国の諸人、悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舍・悪妻・悪子・悪所従等よりも此等に超過し、恐怖すべきこと百千万億倍なるは持戒邪見の高僧等なり」(同)との痛烈な文言です。続けて自問を設けながら敢えて答えを書かずに「此等の意を以て之を案ずるに、我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(同)と記述するのです。空海・円仁・円珍らの悪義がいかに根深く容易には認識し得ないものか、何故に法華一乗の比叡山が密教の山と化したのか。だからこそ真剣なる究明を成さねばならないと強調したところに、密教批判にかける大聖人の熱意が感じられるのです。その中で、一見、自語相違かのような源信批判も展開されるようになったわけです。
師匠は心の離山から若き日に学んだ比叡山・天台宗・台密破折へ、弟子の日興上人は身延離山から師より一弟子六人と称された他の五老僧破折へ。
「唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ」との立正安国論の最後の言葉にこそ、師匠と弟子の真実があるように思います。
林 信男